我が子を亡くした親の気持ち

子を亡くす・・・ことは、

深い悲しみと絶望感や悲しみは、壮絶です。

そう易々とは薄れたり、消えたりするもんでもないです。

悲しくて悲しくて、辛くて、

少しでもいいから、どんなことでもいいから、

あの子を感じたい・・・・!

もう、藁にもすがる思い。

呼吸をすることさえ、どうでもいいと思うかもしれない。

自分(親)が今生きていることさえ、辛く、残酷。

「 会いたい 」、

「 安らかでいてほしい。」

これしかないと思います。

どれほど愛しいか、会いたいのか、

その思いは、経験したものでなければ、

わからない。

子どもは、可愛いだけじゃない。

子供を育てる、ということは、

尊く、忍耐の要ること。

親になっていく時間や経験や複雑な思いは、

苦楽を共にしたからこそ、愛情が増し、深くなっていく。

時に、魂を削る想いだってする。

頭で、理解するものでもない。

お部屋も、そのままにしてたって いいじゃない。

整理するしない、に正解などありはしないのです。

あの子がふっと帰ってくるかもしれない・・・

あの子の香りを、気配を、思い出を感じていたい・・・

良いとか悪いとかではなくて、お気持ちを大切に。

我が子への思いは、単に、子どもの年齢分の年月を

子が居なくなった年月を過ごせば、

時間が過ぎれば、

辛さや悲しみが薄まってくるものでもありません。

” 時間が流れれば、解決してくれる ”

そんな言葉は、何の役にも立たないと思います。

お父さん、お母さんが、懸命に生きていることを

子どもたちは知っています。

ご家族は知っています。

愛しい方々は心でわかっておられます。

生きることが、地獄かもしれない。

同じ境遇でなければ、本当の辛さというものは、

わかるはずもなく、

はかりしれません。

我が子の名前を言い当てることのできる霊能者や

霊媒のところを彷徨っている方々もおられることでしょう。

名前を言い当てることに、どうか、執着なさらないで。

「言い当てる」に拘ると、

交流は、もはや、純粋なものではなく、執着が混じって

しまいます。

それは交流ではありません。

霊媒のところを訪れて、

愛しい我が子に、

愛しい家族に、会える確率を高くするには、

悲しくても 辛くても

親御さんやご家族が、日常を大切にすること。

難しいことですが、これしかありません。

霊媒のところを訪れることが

すべてでは ありません。

愛しいわが子は、

愛しい家族は、

私たちの傍に そっと寄り添ってくれているのです。

アガサ

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