いつも視えるの?

多分、こう思う方もいらっしゃるのでは?

と思う。

” いつも 視えるの?”

と。

これについては、人それぞれだとは

思う。

いつも、視える人が 優秀ではない。

世界でもスーパー級の霊媒であっても、

視える時と、

視えない時が ある!

と、はっきり言っている。

私も、もちろん、ご依頼を下さった方に

正直に伝えている。

(嘘つくことほど、最低なことはない。)

私の経験と 経験から推測するならば、

視える、視えるといつも言うことの方が

不勉強だと 思われる。

いつも 誰かが 見える なら、

グラウディング(地に足をつける)不足。

本来、私たちは、肉体に宿った時点で

そういった伝達方法が抑制される。

それが「普通」であり、

それが「良好」な状態なのだ。

たまに、

視えることを 自慢したり、

特別扱いを されている人がいるようだが

私からすれば、” 気の毒 ” だ。

なぜなら、

いつも、

” 誰か “に 脅えていなければならない。

いつも、びくびくしているのだから。

起きていても、

寝ていても、だ。

気の休まる時が、無い。

もっと 疑問なのは、

そういう状態に「憧れる」人たちだ。

憧れる?

想像しただけでも、、、

いや、想像しないことにしよう。

人の役に立たないことなど、

想像するに値しない。

13才ぐらいまで、

いつも、脅えていた。

あんな生活は、こりごりだ。

最近になって、

ようやく、そういった電源の

スイッチON・OFF ができつつある。

完全にコントロール出来るのは

ずっと先だろう。

” いつも 視えるのですか? ”

このご質問には、

心から 心をこめて、

こうお答えしよう、

” いいえ。”

” 私が 視ようとするのではなく、

 私を 必要とされている時に、

 お伝えしています。”

視えることに憧れる人は

私は どうでもいい。

その欲を満たしてくれる講座は、

世界中に、星の数ほど ある。

ご家族の他界による悲しみの淵で

ずっと

縮こまっていらっしゃる方にさえ、

いつも、私は、正直でありたい。

正直で いなければ ならない。

世間一般で使用されている、

スピリチュアルという言葉は

もはや、

本来の意味も意義も、輝きも、

失せてしまっている。

タイトルやラベルなんて

どうでもいい。

天高い秋の空のように

嘘偽りのない心と精神で

在り続けるだけ。

愛は 静けさの中に あり、
輝き続ける。

合掌

アガサ AGATHA
~天国からのメッセージをお伝えしています~

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