人を助ける、救う とは
先日、ご依頼くださった方から
メールが届きました。
困った状態、不安な状態に
陥った人が抱く思いに つけこむ_
誘う側は、自分は、
人助けをしている、
人を救いたい、
そう思いこまれているのですが、
その組織の本音は、欲。我欲。
それは、
なんとも あさましく、
ナンセンス極まりないのです。
言葉巧みな勧誘に、呆れるばかり。
もし、そういうことを言われたら
確固たる姿勢で はっきりと断ること。
それらを一蹴りするような言葉や
真の思いやりや愛というものを
非常に強く伝えてこられたご機会でした。
– – – – –
(ご挨拶文は省略)
大切な○○達、○○のメッセージは、
しっかりと書き留め 深く心に残っています。
(中略)
と聞き、そのメッセージの意味が
私の悩んでいた事に ピタッと一致し
驚きました。
それは、知人から
私が宗教に入れば
○を助けられる!などと言われ
正直、宗教に対して偏見はあるものの、
私が入る事で○を死から助けられるのなら…。
と随分悩んでいました。
(中略)
セッションを終えて
私の事を見ていて、
心配してくれている人達がいる事に
すごく嬉しく思い
感謝の気持ちでいっぱいです。
今は
心が軽くなり
心が丸く、温かく
心がほんわりとしています。
今まで味わった事の無い
不思議な感覚です。
– – – – –
現在の宗教というのは、誘いが増えました。
この方のように、家族への思いやりの心と
不安な気持ちにつけこむような誘い文句は
到底、真とは思えません。
古くからある宗教も、最近では、
人の目をひくような・・・
サービス業のような・・・ことをしてまでも
関心をもってもらおうと必至な感じが致します。
信じる、ということの真意から逸脱している
ように思われます。
本来、そうした精神的なものは
群れる必要性など 全くないのです。
これをすれば、助かる・・・
こうすれば、救える・・・
こうしたら、浄化できる・・・
etc・・・
この手の誘い文句には、
絶対に 心を揺らされてはなりません。
私は逆に問いたい のです_
神様という存在は、
何かをしなければ、救わないのか?
条件を満たさなければ 助けないのか?
人が集まらないと だめなのか?
といった疑問が 出てきます。
それと同じで、
目の前に 溺れている人がいるとします。
同じ宗教でなければ、救わないの?
何かを買わなければ 助けないの?
毎週通わないから 溺れたんだと言えるの?
どうでしょうか???
人を助けたいという心は、
条件付きなどでは ないのです。
小さな子どもだって 知っています。
困ってたら、「大丈夫?」と言います。
集団にならなければ、
何もできないのでしょうか?_
思いやりをかけることさえも。
大声をあげることや、
大きなイベントをすることが、
集会することが、
真理では ありません。
誰もがもっている「心」は
誰からも奪われるべきではないし、
強制されるものでも ありません。
精神的なものに「群れ」は
必要ありません。
圧力に 屈してはなりません。
なぜなら、
信じるということは、
どこかに属したり、
何かを所有することではなくて、
自分の人生から学び、
自分との信頼から発露するもの。
甘い言葉や 強い語気に、
のってはなりません。
自分の心を腐らせてはなりません。
命あるものすべてに、
生きる権利があると同時に、
「 生き抜く義務 」を
ご自分のために 高く掲げること。
自分を守ること。
誰からも 脅されることなど
何もありません。
生きることも、
死すことも、
人を助けることも、
救うことも、
すべて 尊いことなのです。
そこに、条件など ありません。
霊界から来られた方々は、
冷静に物事を観ること、
判断すること、
を伝えてこられました。
本人の力を信じること_
それが
真の救済だと思います。
合掌
アガサ