終戦の日に

お昼ご飯を食べていたら、

葉山町でも正午に静かな音が鳴りました。

遠くでお寺の鐘の音も。

家族が

「何の音だろう」

「何で鳴るんだろう」というので、

終戦の日だからだよと私は言いました。

家族でいろいろなことを話しました。

戦争をするのは何故か?

戦争によってどうなったのか?

戦争となったキッカケは何だったのか?

誰が戦争に行くのか?

招集された人達の思いは?

どれだけの被害があったのか?

どういうことになったのか?

などを子どもにもわかるように

家族で話しました。

今も、世界のどこかで

戦争や内戦によって

命が奪われているということを

知らせてながら、

地球儀を見ながら。

発言力や権力、お金といったものに

物を言わせる人々を前にしても、

何が善で、

人として正しいのか、

を心に持ち、そう生きれるかどうか。

そういう時代になったら、

きっと、

お父さんとお母さんは

牢屋入りか、殺される、

と子どもに言いました。

人前で

自分の意見や気持ちを伝えることは

とても大切なことなんだよと

わが子に 話しました。

我を通すために ではなく、

人として生きるために。と。

話合いによる和解というのは

時間もかかるし、手っ取り早くありませんが、

「この世」での伝達方法です。

平和は、いとも簡単に崩壊します。

守り続けようと努力しなければ、

皆が皆、武装することで

” 身を守る ” ということならば、

殺人者だらけです。

これは、戦争だけではありません。

家庭でも、そう。

会社でも、そう。

学校でも、そう。

どこででも、そう。

尊い命がたくさん奪われた戦争。

そこに何があるというのでしょうか?

正義だと双方が言うけれど、人殺しには違いない。

わが子に、

他を思いやるというのは

実際にどういうことなのか、

どういうふうにすることなのか、

そうしたこともまぜながら話しました。

原爆が落ちた日、

終戦の日、

震災の日、

お盆、

その他 いろいろな日に

わが子に 親として伝えねばならない

思いを心から話し続けたいと

思います。

合掌

アガサ

+1

2件のコメント

  • むかーし、むかーし、短大生のとき飲み会で戦争の話になった時があります。
    私はもちろん戦争反対です。絶対にダメなことです。とハッキリと言いました。

    一人の男の子が
    『もし、家族を無残に殺されたらどうする?どう思う?』
    「絶対に許さない。この手で殺してやりたいと思ってしまう」
    『そう思うのが普通だよね。死刑にしてくれって願うよね。その当たり前の感情が多くの人がそう思い大きくなったのが戦争じゃないか』『戦争平和って言うなら、家族が殺されても死刑にしてほしいって思ったらダメでしょ。それって一人の戦争だよね。みんな敵軍から家族を殺されれば、こっちもやってやるって憎みが増大して、また殺しが生まれる』
    めちゃめちゃ目から鱗でした。戦争の始まりは大体、宗教と政治が結びついて、そこの関係がごちゃごちゃになって、覇権争いが始まりますが、兵士にとっては、そこは関係ない。日本も家族を守るために多くの少年兵が特攻へと旅立った。その時代の日本人はアメリカ人を米畜生と呼んでいた。
    戦争すれば、お金が潤う、世界のトップのための闘いですよ。

    •  みちる様
      戦争というのは、権力を持ってしまった人間が「自分は一番偉い」と勘違いを起こして、私腹を肥やすための行動です。それで景気をあげる、というためでもあります。
      私の家族たちとは、「こうなった時(最悪な想定)、どーする?」ということを日常的に話し合います。とても嫌なんですけど、最悪なことが起きないという可能性はゼロではないからです。
      権力、お金というものを持ち過ぎてしまうと、まともな人もどーなるか分かりません。チヤホヤされ続ける、どこいっても顔パス、となれば、まともだった神経もまともではなくなる可能性大です。
      それの最たるものが文頭に書きました、大きな勘違い。「自分は偉い」「自分は特別」という感覚。最悪なことが起こった時、家族に伝えている通りの行いと覚悟が本当に出来るかどうか、、、自分はどこまで、考えていることと、言っていることが、実際の行いと成るのかどうか。それを割と常日頃から胸に頭にあります。 大事なことについてのコメントを有難うございます。

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