嫁には行かせたくない 〜 私の mistake 〜
娘と一緒にお伺いしたいです_
たまにこう頂くお伺いがあります。
同行されるお子さんの年齢がある程度の年齢(18才以上)であれば
という返事に安堵されたYさん。
お越しになる前に、部屋でぼんやりしている私に
重なってこられようでした _
< お母さんに 会いたい・・・>
( 私も、母親にあったのは去年の夏ぐらいですよ、父のお葬式で。)
< もっと会えばいいのに・・・>
( ほんと。本当にそうですよね。今のうちなのにねぇ。)
そんなふうに、心の会話があったように思います。
待ち合わせ場所にお迎えにゆきました。
なぜか、娘さんが気になりました。
なんていうか、とにかく、惹かれる。
自宅に着き、一息いれたところで静かに交流を始めました。
お姿がまだ、ぼんやりする。
若いのに、若くないように思える。
どういうことなのか。
どうお伝えするのか。
そうこうしているうちに、
別のことを話されます。
< お嫁には行かせなくない・・・>
( お嫁に? それほど可愛いということですね?)
目にいれても痛くない!というほど。
お父さんかと思いはじめると
また、別の声が聴こえる_
” 若いけど、衰弱が激しい・・・”
そこから先が聴こえづらい。
私自身はひとりなのに、何人もいるような気がするし、
口々に それぞれに 自由に ” 話される “。
「 彼は スポーツが得意のようです。多分。・・・
ううん、違う。多分なんかじゃない。
得意です。
走るのが速かった。」
Yes か No かの反応さえ、夢うつつのような状態。
「 少し空気が変わりました。
別のことを話されています。
・・・なんだろう。お料理のことをおっしゃっています。」
ここで、Yさん母娘さんの反応が聞こえました。
「 食べることは、好きでした。」
とご協力くださるもどうも違う。納得がいかない。
「 いえ。もっと・・・なんていうか、なんだろう・・・」
( 苦戦する私に、あちらからの助け舟がやってきました。)
「 お料理をされる。得意? 違う。得意ではない。
でも、決まった料理をされるはず。
あ、それは何だっけ。。。こんな料理道具は、なんだっけ。
(ジェスチャーで道具を表現しつつ、)
フライ返し? っていうんでしたっけ?
フライパンで使うような感じの。
それを持っておられるんです。
何か、得意なのがあるはず。」
「 チャーハンです。それだけが出来ました。」
涙をふきながら、Yさんが、協力してくださいました。
そして、
「 息子です。」と。
「 息子さん? けれど、私にはそこそこの年齢に思えます。」
母娘さんおふたりで、顔を見合わせながら、
「 痩せていったから・・・髪の毛も薬で。年いって見えたよね。」
とおっしゃいました。
息子さん・・・。
だから、” 若いけど、衰弱している・・・” か・・・。
ミスだ、私の。
心から申し訳ないという気持ちで いっぱいになりました。
「 申し訳ないことでした。
誰よりも息子さん、ごめんなさい。
お若いのに、若くない気がするって言ってしまって。
本当に、ごめんなさい。
年齢は、私のミスです。」
おふたりは、
「 いいえ。とんでもない。」と慰めの言葉を下さいました。
「 それにしても、娘さんのことをとても可愛がっておられますよ。」
おふたりとも、ニヤッとされました。
娘さんが さらっと
「 シスコンだから。」
とおっしゃる。
「 シスコン?」
ピンと来なかった私。
次の瞬間、
「 あぁ、シスターコンプレックスね!(笑)」
「 なるほど!うまいこと言いますね!まさに、その言葉通り。」
若いって素晴しいですね。
言葉が実に軽やかです。感心しました。
「 なにか、お尋ねになりたいことはありますか?」と私。
「 はい。お墓のことを尋ねたいです。」とYさん。
( お墓のことであなたの意見を尋ねたいそうですよ。)
< お墓かぁ〜 ・・・>
「 『お墓かぁ〜』とおっしゃいました。」
「 (そういうふうに)言いそう!」とおふたり。
< 遠いのは・・・いやだな・・・>
「 『 遠いのは、いやだな。』と。遠いのは嫌だそうです。」
「 わかります。」
「 おわかりになるのなら、いいですね。」
「 はい。」
とおっしゃいながら、「わかります」とおっしゃった経緯を
話してくださいました。
なるほどと私も聴いていましたら、
< お正月は帰るから・・・楽しくやろうよ・・・しめっぽくならないで。>
( え? すみません。聴いていませんでした。もう一度話して。)
同じようなことをもう一度話してくださり、
そのまま、Yさんにお伝えしました。
その意味も、Yさんにはおわかりになったようです。
現実に、そのようにすると思っておられたようでした。
ぼちぼち、私の限界です。
頂いたメールの一部を掲載させて頂きます。
– – – – –
(略)
こんな言い方失礼かもしれませんが、
息子の声が聞きたいと思う半面、半信半疑のまま伺わせていただきました。
でもアガサさんのお話は
息子だったらきっとそう言うだろうな…そう言ってるな…と思えることばかりで、
息子が亡くなってから私がずっとひっかかっていたことが、すーっと心の中に
入っていくような不思議な感覚でした。
今日は(中略)久しぶりに息子と話をしたような、そんな気持ちになりました。
今も私たちのそばにいる…
時々だけど来てくれる…
息子は、自分の人生にきちんと向かいあい、
今自分が置かれている状況で自分のできることをしようとしている…
そう言ってもらったので、私の心の中の何かがほんの少し軽くなったように思います。
この○○…辛くて苦しくて悲しくて、自分だけが今もこの世に生きてることを
申し訳なく思いながら毎日朝を迎える度に息子に謝ってきました。
息子はまだまだやりたいことがあったはずなのに…と思うと、
どうにもならない悔しさと切なさに押し潰されそうになる毎日でした。
でも、○年間幸せだった…という息子の言葉を信じたいと思います。
– – – – –
メールの最後に「 ここだけの話ですが 」と
付け加えてくださったことが あります。
なぜ、私が娘さんを一目見た時、惹かれたのかが
ほんの少しわかったような気が しました。
家族共通の悲しみがある場合、
家族のほとんどが悲しみにくれ、涙を流す日々であると同時、
涙を流さない家族も、います。
流す涙は、悲しみの深い浅いでは ありません。
悲しいから 泣く、もありますが
泣くことが すべて、とも思いません。
泣けない状態が あります。
かといって、泣かずに 踏ん張るのが良い、とも思いません。
なんでもそうだと思いますが、
すべてに「 時(タイミング・機会)」が在るのだと思います。
いづれにしても、
自分の感情が 自然な形で表れるのは
速い遅いではないと思います。
ひとりひとりにあった ” 自然のタイミング ” が
在るのだと思います。
家族に、
人に、
命に 寄り添うというのは
命を 見つめることは、
真に 忍耐が要ります。
様々な感情との闘いです。
現実との闘いです。
だけど、
後悔など ありませなん。
愛するというのは、常にベストの状態で居れるわけでも
ないでしょうから。
ベストの状態でないからといって、自分が家族や相手を
祖末にしていると考えるのは 違うように思います。
後悔をしたならば、
後悔を活かすこと。
自分のなかで、慈しむ心を育み続けること。
それが 最善だと思います。
愛犬との散歩道でさまざまな風景に出会います。
上の風景は、私がもっとも大好きなひとつ。
寒くなってくると小鳥たちは、仲間と共に行動しますね。
子どもには「ああやって、寒い間、お互いを温め合うだろうね。」と
話しています。
微笑ましい限りです。
私たち人間も、「他よりも自分が」ではなくて、互いに温めあうことが出来れば、
分け隔てなく生きるということを大切に思えればと願うばかりです。
” お〜い、すずめさん達ぃ。私も今度くっつきたいよぉ〜!(笑)”
動物たちから好かれるって、本当にしあわせ気分ですもの。
アガサ 葉山在住
天国との対話 愛しい家族との時間
~天国の人々の思いを伝えています~