行事(法事 など)に関しまして
以前からよく頂くご質問です。
法事についてですが、大きく広げて「 行事 」と致します。
これはあくまでも私個人の考えですので、正しいとか正しくないとか
そういう類いのご判断はされませんようお願い致します。
他界されたご家族、ご友人、お知合いの方々へは
心から偲ぶ _
それが最高です。
十分です。
生まれてきたこと、他界することに関しまして「行事」は、
どの国においても、宗教的な考えと名残りが多くあります。
生死に関わることだけに、型にはめようとするのが、
人の感情です。
私的には、
それをやらなきゃいけないことはない、と思っています。
それをしなきゃ、
丈夫に育たないとか、極楽浄土しないとかは、迷信。
不安をあおれば、それをするでしょう?(笑)
宗教というのはそういうものです。
古来からある宗教が悪い、良くない、という意味ではありません。
例えば、「 戒名 」。
これは、仏教ですね。
キリスト教ではそういうのは必要ありません。
戒名がなければ・・・、
お墓がなければ・・・、
無事にあちらに辿り着けないのか?
どうぞ、心でお考えになってみてください。
私としては、「そんなことありませんよ。」です。
心が大事です。
真心で生きることだけ。
例えば、
正直に、質素に、出会う人出会う動物たちに真心で接して来られた人が
他界されたとします。
自分のものを人に差し出すような人生を送ってこられたので
世間で言うところの「 貧乏 」です。
ご家族も質素に暮らす日々。火葬だけは何とか出来ました。
何とかしてあげたい気持ちは山のように高くて海のように深い。
けど、現実、戒名もお墓も買えない。
三度食べるご飯さえままならない状態。
ならば、あちらで苦労するのでしょうか?
成仏といわれるようなことが出来ないのでしょうか?
そんなご家族は責められるのでしょうか?
そんなん、おかしいですやん。
ねぇ?(笑)
逆に、
欲の塊で、自分さえ良ければいい、
人を騙して、犯罪して、だけど、大金持ち。
高い戒名をつけてもらって、お墓も超高級!
だったら、あちらでの待遇も良いのか?
それは、無いでしょう。(大笑)
無い無い。
宗教によって、
それが必要、あれが必要・・・というのは、異なります。
ここで、私は子どもの頃から疑問に思っていました。
「 なんで そんなん 要るの?」って。
大人になっても そう思います。
まあ・・・、そういうことですよね。笑
色々な行事や縁起物やら何やらというのは、
教会なりお寺や神社というところに、お金が入る仕組みです。
それが悪い、という意味ではありません。
お坊さんも、善の塊のような方もいれば、
高級車持ってたり、煙草すったり、女遊びしたり・・・
おられますよね。
もっとも、そんなことをご自分からは、おっしゃらないと思いますけど。
言わないだけでそういう方って多いです。
その人がどういう仕事をされていようと、
どんなに ” ラベル ” があろうと、
顔や空気から 心の在り方は にじみでます。
嘘つけないのです。
「 見た目や肩書き(ラベル)で物事を判断しない」のは
そういうことです。
人間って、そんなんじゃないんですよ。
学歴があるから、偉い。善い人。
学歴がないから、低い。悪い人。
そんなこと決められないでしょう?
昨今を賑わすニュースからも、うんざりする程です。
そんな”定規”や”杓子”で、心の中は 計れません。
良識で考えること。
常識では考えない。
常識は時代変われば、内容も変わるから。
各家庭、様々な事情を抱えておられます。
遠いところで生きておられるご家族や親戚の方々もおられるでしょうし、
実に様々な事情があって、行事に参加出来ない方々も多いと思います。
なかには、絶縁なさっているところも いらっしゃるでしょう。
そういう状態であったとしても、そこに、拘らない方が良いですね。
そこを責めないほうが良い。
行事をやったって、集まったって、
心がこもっていなければ何の意味もありません。
偲ぶ心があれば、善いと思います。
有難うと心から感謝する気持ち、
愛する気持ちがあれば、それが最高です。
様々な事情を抱えているからこそ、
申し訳なさも募ると思います。
でも、そういうことは あちら的にはあまり関係ないようです。
お墓というのは、偲ぶ気持ちや偲べる場所としての ” 標 “。
自分に立ち戻る場所や機会でもあると思います。
場所に拘らなくても良いと思いますよ。
そこに行かなきゃ、偲ばない偲べない感謝出来ないということでは
ないのですから。
私はこのように思っています。
それに、
あちらから「 お墓参りしろ!」とか「 早くお墓を買って。」とか
「 法事は皆で揃ってやって!」などということをおっしゃった方は
今のところ どなたもおられません。
面倒くさいことはしなくていいんだ、という意味ではありません。
その点は誤解をなさらないでください。
心から尊敬している尼様、お坊様、シスター、神父、牧師様も私の心には居ます。
彼らが聖職者だから尊敬しているのではありません。
外見や肩書き(ラベル)の部分で人の扱いを変えるような私ではありません。
人として、というところで尊敬に値するからです。
何かのご参考になればと思います。
一生かけて、我が家の家族でいてくれること。
心配したり、怒ったり、笑ったり。
共に生きていること、生きてきたことが 宝。
命を大事に思う、というのは、日常からそうすること。
人の見てないところでも、そうすること。
人が見ていなくても、自分の心は見てる。
今日も目を見て、優しくなでられる幸せを噛み締めました。
「 おはよう!ごん。いつも、ありがとうな。」
アガサ 葉山在住
天国との対話 愛しい家族との時間
~天国の人々の思いを伝えています~
年齢や育った環境によって、行事への関心は違ってきますよね。
私の祖母の時代は、そうするものとして接するのが普通のようでした。
けれど、今の時代は、違ってきていますね。
どちらが良いのか、というのは言えないと個人的には思います。
無理をしてまで、そうした行事をするのは、私たちをとりまく環境や背景によって
出来ないことも多々あると感じています。
大事なのは、今も昔も 心だと思います。
勇気を出してコメントしてくださり、有難うございます。
アガサ
思う気持ちは一緒でも、何を信じているかによって違ってくるんですね。
来月は娘が旅立って一年目がやってきます。
この時期に、こんなふうに気持ちを持っていけばいいんだって思えるお話しが聞けて感謝です。
ありがとうございました。
アガサさん。こんにちは。
そうですよね~。納得納得。
こちらは地域柄、仏壇行事がとても多くて、「誰の為なの?」「あの子が喜んでいるの?」といつももやもやです。
日々あの子を想い、感謝して、前と変わらず当たり前に家族の一員なんです。
他界したからといって我が子が手の届かない仏様になったとは思っていません。
ただ、親や親戚の固定観念はかなりの圧でして・・・。なかなか私たち夫婦の思うように・・・とはいかないのが現実です。
祖父母も孫を想っての意見だということと、言い争う気力がない・・・という感じです。
でも、少しずつ本当にやりたい供養の仕方に変えていきたいねと、主人と常々話しています。
あの子が一番喜ぶこと・・・。いつも一緒だよ、いつもありがとう、の気持ち。
それが天国に届く最高の贈り物だと信じています。