心は嘘つけない。

交流をしていくなかで、一番難しいところは、心。

心というのは多面性があります。

一筋縄では理解出来ません。

心というのは、他界していようが、こちらに居ようが、

変わりません。

他界したら誰でもかれでもが、心が浄化される・・・

というような自動的なことはないようです。

この世的な誤摩化しは効かない。

嘘はつけない、ということです。

わかりやすく例えますと、

表沙汰になるならないに関わらず、

人を騙したり、脅したり、いじめたりしたとします。

もちろん、犯罪も含みます。

人を蔑むように生き続けるも 誰でも他界します。

たまたま、お金持ちだったとします。

他界したら、

お金を積んで、

高額な戒名をつけてもらったり、

高僧にお経を唱えてもらったり、

一等地にお墓を建ててもらったり・・・

というようなことをすれば、

自分がやってきた行いがすべて「帳消し」になる!_

そんな都合の良いことなどありません。

人としてどうなのか?

というところです。

犯罪でなくとも、

“ラベル”崇拝し、自分に酔っている人達は

日常を見直した方が善いと思います。

学歴、勤務先、職種、お金の量・・・

これらは、この世的。物質的。

他界では、そうしたものは、一切関係ありません。

すべては、「 心 」。

悪いことしてるな、

誰かを傷つけているな、

誰かを困らせたな、

というようなことが少しでも心にあるならば、

思ったら吉日、すぐに止めた方が善い。

勇気を奮い立たせて、欺瞞なことは止めること。

潔く今までの悪しきことを認め、止めること。

それが出来る、出来ないは、

いままで、一度でも

心から 誰かに感謝したことがあるか、ないか_

だろうと思います。

自分さえ良かったらいい・・・

誰も見てないからいいだろう・・・

他の人もやってるから、別にいいだろう・・・

といったようなことは、やらない方がいい。

誰もみていなくても、記憶(記録)されているのだから。

自分の心に。

自分で蒔いた良くない種は、

自分でしか刈れない。

他の家族に影響する、ということはありません。

家族といえども、自分ではないから。

家系の因縁、なんとか、、、、というのは迷信。

感情の良い悪いはあったとしても、

良い霊、悪い霊というのも、人間が勝手に作ったこと。

これからの季節、テレビ番組で

そうした類いの番組が放送されるかもしれませんが

低迷し続けるテレビ局の視聴率狙いですから

そのあたりは良識でご判断ください。

悪いと思ったら、止める。

良いことを地道にやっていく。

最初は、自分の感情とのにらめっこ。

でも、忘れた頃に 良い習慣になっていく。

それが、性格に加わり、

人格が備わってくる。

そうやって、ようやく

人と成れる。

そう 思います。


プランターの隅っこに、可愛い「オジギソウ」がやってきました。
風で飛んできてくれたのかな〜?と家族間で言ってました。
わが家で前から大人気のオジギソウ。
そっと触れると、動くところが良いですよねぇ。

+3

4件のコメント

  • 人として最低限のことなのになかなかですね。
    自分では人を傷つけたりしていない困らせてもいないって思っていてももしかしたらどこかで誰かを傷つけたり困らせたりしているのかもしれません。
    知らずにいることの方が怖いし厄介ですもんね。
    誰もいないからと赤信号を走って渡ったりしたらよく娘に怒られていました。スーパーで買うのをやめた商品がどこにあったかわからなくなって途中で諦めてそっと別のところに置いた商品を娘は必ず元の場所を探して置いていました。
    恥ずかしくてこれくらいしか書けないけど、
    探したらキリがないほど私は娘に遥かに及びません。
    向こうに行っても性格変わらないって嬉しいですね。
    そのままの娘に逢うためにも、
    私は少々軌道修正して錆びている感覚を元に戻して人として胸をはっていけるくらいになれるように頑張ってみます。
    いつもありがとうございます。

  • こんばんは。いつも、素直なお気持ちを有難うございます。
    皆、そうですね。私もそうです。
    気づいて、「あぁ、そうか。」と思い、また、そうした気持ちが薄れて。
    生きるということ自体、常にどなたかのお世話になっています。
    そう思えれば、そうは偉そうな態度は出来ませんね。(苦笑)
    自分ひとりが偉いんだ、
    自分はスゴい、
    というような狭い中で生きることほど、気の毒なことはありません。
    表情に出てきますよね、心って。
    とんでもない辛い思いをする。
    こんな辛いことはない。
    生きることが辛いと経験する。
    それは本当に辛いことなんですけど、そういう経験をした人と
    しない人とでは、思いやりの有難味は確実に違います。
    口で「感謝」というのは本当に容易いこと。
    その言葉が本当かどうか、心がこもっているかどうかは、
    いままで歩んできた人生で判断出来るものがあります。
    自分さえ良ければいい。
    この考えは、この思いは、日本を動かせるラベルのある方々に
    多く蔓延っている考えだろうと思います。
    ひとりひとり、1対1で話せば、そんなにふうに思わないのに、
    集団となってしまうと別人のようになってしまう情けなさ。
    個人が寄付をしなくとも、ボランティアをしなくとも、
    国が正しい税金の使い方をすれば、正しい行動をすれば、
    歪んだ心も犯罪までに発展しないこともあると思います。
    権力、財力、人気というのは、人を簡単に変えてしまいます。
    普通に生きれることがどれだけ幸せか、
    一旦、欲に溺れると、欲の中で生きるとわからないのです。
    アガサ

  • いつも疑問にお答えくださって、ありがとうございます。
    辛い経験をしました。でも、だから見えてきたものもあります。
    私は、まだまだ未熟ですが、改めなくてはいけないとこは、改めたいと思います。
    余談ではありますが。
    悩みに悩んでいた法事、やはり周りの声を無視できず、
    お寺でやることになりました。
    お寺にお電話してお願いをしたら、お坊様に「ありがとうございます」と言われました。
    お坊様を悪くは思いませんが、いまはビジネスなのだな、と改めて思いました。
    なんとなく、やるせない気持ちです。
    いつも、お手間を取らせて申し訳ありません。
    でも、記事読んでホッとしました。
    (もしかしたら、同じ疑問をお持ちの方が他にもいらっしゃるのかも知れませんが 汗)

  • コメントを書き込むことはとても勇気が要りますね。そう思います。
    有り難し。有難うございます。
    辛い経験をしますと、なかなか素直になれない時期があります。
    自分以外の人達が幸せそうに見えます。
    表面的なことを見て、そう思ってしまいます。
    それを「いつまでもお幸せに・・・」と思える時もあれば、
    自分にはないということで嫉妬に似たような、自分だけが不幸だと
    思えてしまう時もあると思います。
    それは、皆一緒だろうと思うんです。
    自分だけが弱いわけではない。とね。
    辛い経験、悲しい経験というのは、いつか必ず役立ちます。
    それが目に見えて誰かのために役立つかもしれませんし、
    じんわりと誰かの心にしみいるかもしれません。
    その「誰か」とは一生会わないし、話さない人であってもです。
    自分自身の経験を必ず役立てないといけない、ということもないと
    思っています。
    自分の心が少しでも深く(思いやりが増える)なれれば、十分です。
    お寺。
    お寺というのは、日本人にとってやっぱり特別な場所ですね。
    中に入らなくても、散歩の道すがらに通るだけでも自分の中で
    何かが違うような気がします。意識、なんですかね。
    職業が悪いわけではなく、どのような仕事をしていても、当人の
    心掛け次第、心次第と思います。
    素晴しい衣装を着ていても、心が伴っていなければ、ハリボテ。(笑)
    普段の服、質素な服を身にまとっていても、心が素晴しければ
    それはそれで素晴しいですね。
    お寺さんで、ゆったりとした時間(機会)をお過ごしください。
    心をこめた機会でありますように。
    アガサ

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