今を生きる

タイトルの「今を生きる」というのが思いに適当なのかわかりません。

ありふれた言葉のように感じますが、しばし、おつきあいください。

以前にも書かせて頂いたと思うのですが、

ご依頼を頂く半分は、ご自分からこの世での生活に終わりを告げた方々です。

近いお身内の方々は、複雑な心境であります。

個人的に思いますのは、

どのような流れで他界されても判断は出来ません。

自分から選ぶことを良しとしているわけでもなく、

悪いことと決めつけることは出来ないのです。

生きることも、死するのも どちらも大変で、尊いことです。

私自身若い時分に、友人自らの選択を知った時は、怒りに震えました。

悲しさを通り越して。

” 生きたくても生きれない人もいるのに・・・”

そんなふうに思っていたのだと思います。

だけどそれは、私が何も理解していなかったのだろうと

今はそう思えます。

物事を一方から判断すること全てが、正しいとは限らない。

人の心は実に、様々です。

強い面と弱い面と中間の面もあります。

どれもが重なり合い、複雑に絡み合っています。

自分の身内、友人知人が他界しますと、大変なショックを受けます。

ショックの受け方も長さも、人それぞれ。

人前では大泣きして、外に出るとあっさりされている方もおられますし、

数日、数ヶ月は、胸に深く残り、あとは少しずつ薄らぐ人もいるし、

ずっと苦しまれる方もおられます。

言い悪いでもなく、本当に悲しいか、そうでないか、でもありません。

ずっと苦しまれる方は、とても繊細です。

” 自分がもっと何か出来たんじゃないか?”

” 手を差し伸べることが あったんじゃないか?”

” もっと ◯○すれば良かったんじゃないか?”

ああすれば、

こうすれば、

今が違っていたんじゃないか・・・・・・・・・・

と。

確かに、そうかもしれない。

けど、

違うかも、しれない。

それは、誰にもわからないと思います。

生き返ってくれたら・・・

あの前日に戻れたら・・・

誰でもそう思います。

だけど、それは、私たちが深い悲しみを経験したから

そう思うのです。

時間を戻すことが出来たなら・・・

地球上すべての人や動物、植物、宇宙すべてが、

平等に戻るのだと思います。

そしたら、経験している悲しみや辛さや様々な思いも

未経験状態に戻るでしょう。

最愛の人が戻ったとしても、病気が治ったどこかの誰かさんは、

病気中の頃に戻ってしまうでしょう。

それが”最善”と言えるかどうか・・・。

悲しい経験も、辛い経験も、経験したのです。

その経験を自分だけの感情にまかせていることが、

悲しんでいるとは言えない。

愛しているのだとは言えない。

自分の感情が優先されているのです。

キツい言い方を許してください。

愛しい人のことを思えばこそ、

私達は、悲しみを心で背負い、

心の傷があるからこそ、その経験によって

困っている方々、動物達に思いやりの心を持てるのです。

愛しい家族にしてあげたかったことを、

目の前に居るご家族にしてあげて欲しい。

時折、耳にします。

「自分はこんなに悲しいのに、家族はあっさりしている。」

というようなことを言われます。

“私は、こんなに悲しい・・・”

“自分の方が悲しいんだ・・・”

“自分は他界した家族のことを心底悲しんでいるんだ・・・”

もしこういう思いがよぎったら、

独りよがりも甚だしい。

自分だけが悲しいなんて、傲慢。

感情の表現は、人によって違うのです。

家族や愛しい人を亡くして 悲しくないわけない。

悲しみ方や毎日の生き方は、違っても、

それぞれに心に傷が在ります。

辛い、悲しい、寂しいは、当たり前。

そんなの 当たり前。

立場を変えて申し上げますと、

他界におられる方は、

ずっと ずーーーーーーーと 悲しんでいる姿を視るのです。

この方の気持ちは、どうしましょう?

最愛のご家族の気持ちは?

最愛の人の気持ちは?

わんちゃんやねこちゃんだって、悲しいですよ。

悲しむな、ということではありません。

悔やまれてばかりじゃ、

悔やまれる側だって 気が気でないんじゃないかと思います。

私が他界したら、そう思うと思います。

” あぁ、私って愛されていたんだなぁ〜。悲しんで生きてね。”

と家族に対して、絶対に思わない。

心の傷は、受けたままにしておくよりも、

似たような境遇におかれている人々や動物たちへ

少しでも救いの手を差し伸べることで、私達の心の傷も

傷ではなくなるのではないかと思います。

最愛の家族を今まで通り触れられないのは

とても悲しい。

悲しくて寂しいに決まってます。

誰だって、そうです。

自分だけじゃない。

命の尊さ、命の儚さを経験されたのです。

だったら、

本当にそれがわかってるなら、

心と行動を一致させること。

その勇気と覚悟をお持ちなさい。

最愛のご家族に向かって、

” 見ててよ!私、大事に生きるから!”

と言っておあげなさい。

悲しみを背負いながら(覚悟)、

身の回りにある幸せに気づき、大事に育むこと(心)が

他界した家族や友人知人に、温かな空気となって伝わるだろうと思います。

肉体を持つ家族や周囲の人々にもそれは伝わります。

生きることも、

死することも、

どちらも尊いのです。

長い短いはあるにせよ、この世に生まれてきた私達は

皆、他界するのです。必ず。

だからこそ、大事に生きること。

出来なかったこと、

してあげれなかったことばかりを見つめるは、

もうストップ。

身近にいるご家族の健康を心から有難いと思えてないとすれば、

命の大切さって、何でしょう?

そのご家族が病床に伏せてしまってから、

また、ああすれば良かった、こうすれば良かったと

思うのでしょうか?

今、できることは多くないかもしれない。

小さいことかもしれない。

けど、真心を持つことは出来る。

真心で生きていると、目の前にあることが

とても有難く思えてきます。

有難うって、

この漢字通りに、思えます。

今を生きる、ということは、

大きな深い悲しみを経験したからこそ、

その意味と貴重さがしみじみわかるのです。

命の尊さを真に理解している人は、

弱き立場におかれている人達、動物達に

心が向きはじめます。

そうしてはじめて、

最愛の人を愛せ、

感謝の真意と恩恵を実感するのです。

どうぞ、今を大事になさってください。

あなたを大事になさってください。

アガサ


家族がキャラメルポップコーンを作っていました。
ポップコーン用を買って、鍋に入れて、バチバチポンポンしたものに
カラメルを作って、かけて。
いや〜、美味しいですね!
「◯○剤」というようなものがかかっていない食べ物を食べれるって
本当に幸せです!
※たまには、私も作るんですよ。古くなったバナナを使ってバナナパウンドとか。(笑)

+5

2件のコメント

  • 自らこの世での生活に終わりを告げた、自死した人たちこそ”生きたくても生きれない人たち”なのだと思います。
    真面目に生きすぎた。自分の問題を自分で解決しようと周りに心配かけないでおこうと一人で頑張りすぎた。生きようと思って頑張ってた。
    そう思うのです。
    一方で残された自分、
    ”自分の感情が優先されている”…その通リだと思います。
    禅寺のお坊さんにもそのようなことを言われたことがあります。
    私にはとても心に響く記事でした。ありがとうございます。

  • 風さん、お気持ちを綴ってくださり有難うございます。
    > 自らこの世での生活に終わりを告げた、自死した人たちこそ”生きたくても生きれない人たち”なのだと思います。
    > 真面目に生きすぎた。自分の問題を自分で解決しようと周りに心配かけないでおこうと一人で頑張りすぎた。生きようと思って頑張ってた。
    > そう思うのです。
    本当にそうですね。そう思います。
    ご自分で決められたことに対して、周囲の私達は、あれやこれやと思いを巡らします。
    ご本人に何かしてあげたいという気持ちをどうすればいいのか・・・
    これは人それぞれだろうと思います。
    スピード優先、結果優先、アピールしたもの勝ち的な世の中にありましても、
    人を思いやる気持ち(心の余白)を大事にして生きることが
    私達に出来る"何か"なのだろうと思います。
    多くの人達、多くの動物達には無理でも、
    ひとりの人、一匹の動物になら思いやりの心を持てるかもしれません。
    それなら出来るかもしれない。
    まずは、自分の心に余裕(余白)を持つ事を心掛けたいと思います。
    なかなか出来づらいかもしれませんが、それでも、意識しないよりかは
    マシだろうと思っています。
    ありがとうございます。
    アガサ

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