親の心、子の心

まずは、Yさんからのメールの一部から始めたいと思います。

– – – – –

娘の事伝えて頂きありがとうございます。

「逢いたい」といわれたとき、いつも側にいると思っていても

やはり 姿がみえない事がさみしく悲しいことでした。

たまに「逢いたい」と伝わってくるのは私の心なのだと思っていました。

娘も会いたがっていてくれてると思うと涙が溢れてきてしまいます。

娘は生まれたときも産声を上げず、

何故か上の子達と違って心配というか何なのかわからない思いがありました。

高校の頃「お母さんもう一人産んで」といいました。
※ありそうな言葉のように思われますが、そうではありません。ご事情の部分は割愛させて頂きます。

私をびっくりさせたこともあり、今思うと

自分が早くにいってしまう自分の代わりではないけど、

ちょっとでも私が生きる糧を作ろうとしていたのかもしれません。

それも魂のどこかでは早い今世の別れを知っていたのかもしれないと

娘が帰ってから色んな事が結びつきました。

それまでは、魂なんてあるわけがない(考えると怖いことでしたので打ち消していました)

でも、それから その世界を知ろう(理解しよう)と思いました。

(略)

– – – – –

お約束の時間になり、Yさんからお電話を頂きました。

電話口から聴こえるYさんのお声は何故かわかりませんが

とても”懐かしく”思えました。

頂いたメールにも書かれていますように、” 会いたい “気持ちは

いつもの、私の静かな時間に話されたのです。

< お母さんに 会いたくて 会いたいんです。>

若い女性から伝わる思いと心に、恋しくて切なくなりました。

しばらくしますと、昨夜起こったカユミが、また起こりました。

左上腕の部分的な痛みというかカユミのような、です。

ピリピリしてくるような、私にとっては未経験な体感。

今度は、胃がとてもムカムカしてきますし、

お伝え途中で、鼻からタラ〜っと流れてくる感覚もあったり。
(実際には、流れていません。)

すべてをYさんにお伝えしますと、すぐに思いあたることを

お話しくださいました。

「お嬢さんは外見からは想像しづらいほど、何かに焦っておられました。

 まるで・・・」

と言いかけた時、

< 私には 時間がないように思えていたんです。>

( そう!そういう感じ。)

「 お嬢さんには、時間がないように思えておられた。

 そういうふうに思えたことはありますか?」

「 はい。今、思えば、そういうことがありました。」

「 彼女は何だかわからないけれど、予感か予見されていたようです。

 これを証明することは難しいですが。

 その予感が何なのか具体的なことはお分かりにならなかったのです。」

「 はい。

 帰る一週間程前だったでしょうか、

 娘は小さい頃の自分は、どうだった?可愛かった?

 というようなことを突然聞いたりしました。

 今思えば、予感していたのかもしれません。」

「 そうですか・・・。そうかも、しれませんね。

 個人的にお気持ち、わかります。とてもわかります。」

「 お嬢さんは、本当にご家族のことをよくご存知です。

 特に健康面。驚きました。」

「 家族のことを見てくれているんですね。」

「 そうだと言いたいから、いろいろなことを教えてくださったんです。」

ぼちぼち、1時間が経とうとしていた頃、

(経っていたかもしれませんが)

彼女が小さな子ども達のお世話というか見守っていることを

映像で視せて来られました。

「 あ、Yさん、お嬢さんが・・・」

「 はい。」

視せてもらったことを整理して伝えました。

それは、他界した小さな子ども達を見守ったり、

手を繋いでこっちだよと誘導したりしている姿でした。

「 お嬢さん、そういうお仕事というか、そうしたことを

 なさっているようです。」

「 そうですか! 何となく、そうだと思っていました。

 そうですか、小さな子たちのことを。

 あの子らしいです。」

Yさんの交流の数日前に、別の方の交流をお伝えしていたその時に

控えめにおられたあの娘さんだったんだ・・・と思い出しました。

あの娘さんが、Yさんのご家族だったんだ。

その時にははっきりとは分からなかったのですが、

小さなお子さんはとにかく遊ぶのに懸命だったのでしょうね(笑)、

言葉が話しづらいのでやりとりを手伝ってくれていた娘さん。

他界の、愛あふれた連携に心から頭の下がる思いです。

私達が今いる世界も、そうした連携が必要ですね。

言葉の揚げ足をとったり、

感情を相手にぶつけたり、

周囲のことを考えずに、自分のことだけ。

その表情や空気は、いかばかりでしょう。

命の大切さ、

家族の存在の大きさを知ったならば、

他を理解しようとする心が芽生えることが

望ましいように思います。

この回想記録を読まれる方々おひとりおひとりの胸のなかで

それぞれに思われることがお有りだろうと思います。

私も、おぼろげで頼りない記憶を回想することで、

自分の足下を見つめる機会になっています。

家族や親しい人の他界によって、私達は、

心を閉ざすことだけは やりたくないものです。

Yさんの娘さんのように、

穏やかな優しさを日頃から いつでも どこでも

持つように心掛けたいものです。

彼女がいつも、

家族を思い、

他を思うように。

私達が失いかけている、大切なことです。

=おまけ=

50年来の心友から何年か前に頂いたものです。
内裏雛様、お雛様、そして、子。
これを頂いた時、胸にぎゅっと来ました。
手の平に乗る丸いお盆の上に、小さな小さな3人。
もうすぐ、桃の節句ですね。
生ものが苦手な私を思って、母が散らし寿司を作ってくれ、
親戚が来ると近所のお寿司屋さんに出前をとる祖母は
孫娘のためにこっそりひとつだけ散らし寿司も注文してくれたことを思い出します。

その頃は、親や祖父母が子や孫と遊ぶというようなことは滅多にありませんでした。
いつも、働いている姿。
いつも、家族のために何かをしている姿。

私は、それこそが子にとって孫にとって良い影響を与えるのだと思うのです。
目立つことや人よりも抜きん出ることに業を燃やすのではなく、
全うに生きること。
いつも、一生懸命に生きることを。
口先ではなく、背中で語ることが本来の躾だろうと思います。
今の時代、あらためて大切なことだと思えます。

アガサ

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