静かに敬意を。

世の中が便利になり、ひとりひとりの発言や行動が

自由になり、

大切なものが置き去りにされてきた。

なにかあれば、表現の自由だとおっしゃる。

その”表現の自由”というのは、なんだ?

表現の自由はもちろん大切だが、

人を傷つけての”表現の自由”は いかがなものか。

表現の自由の名の元には、

人としての真心が 必要。

好き放題、言いたい放題、やりたい放題 が自由ではない。

自由の意味をはきちがえては 悲惨なだけ。

すべてにおいて、まったくの自由は ない。

自由を歩むには日々多くの覚悟が必要。

自由は、

人を傷つけたうえに成り立つものではない。

人ひとりの命を大切に、心底大切に思えるならば

非難や批判というのは口にも心にも出てこない。

それは、表現の自由でもないし、報道の自由でもない。

” お金があるから、受けられる医療だ “、

” ああすればよかったんだ “、

” そういう治療方法は間違っている “、

等と他人様に言うよりも書くよりも

他にやらなきゃいけないことが あるだろう?

他人様のことをどうこうおっしゃるよりも、

ご自分のご家族の心を大切にすることがあるだろう?

ご本人に直接言うのではないからといって言いたい放題は

人としておかしい。

他人様を傷つけるよりも やらなきゃならいことが

あるだろうと思う。

人ひとりの命。

懸命に前を向き続けたご本人、

愛しいご家族を懸命に支え続けたご家族の方々へは

静かに

静かに

そっとしてあげたいと思い願うのが、人ではないのか?

” 私はこんなに祈っています。”

” 故人とご家族にこういう祈りを捧げています。”

等ということも言う必要も書く必要も、ない。

それらは、自己満足の自己アピールであり、

自己陶酔以外の何物でもない。

言った直後、書いたまなしから、その輝きは陰湿なものへと

変化していく。

ご自分のご家族が他界された時に、

まったく知らない方々から

非難批判を浴びせられたら

どんな思いがするのか・・・

それぐらいはおわかりになると思う。

悲しみの淵におられる方々をそっとしてさしあげるのが

心ある者の思いやりと態度だろう。

精一杯 生き抜いて来られたご本人に対して、

精一杯 支えてこられたご家族に対して、

第三者が

エラそーに ああだこうだ言い、

さも何でも知っているかのようにSNS等に書くのは、

人として 善きことなのか?

その言葉ひとつひとつに、

発信側の美しい真心が含まれているのか?

他人様の神聖な他界について、

ご自分の日常における不平不満をぶつけてはならない。

生まれてくること、

死すること。

どちらも尊い。

人生で最高の感動と感謝の瞬間。

静かな、静かな、神聖な時間。

生まれくる時も、

死する時も、

弔う準備をして頂く時も、

私たちは、多くの方々の手を借りている。

想像しえない思いやりと多くの方々の手に

お世話になるのだ。

悲しんでいる方々の一挙一動に対して、

責め立てるのは

止めましょうや。

他人様のことをいうよりも、自分の生き方を大切に

見つめた方が良い。

心静かにしていよう。

命に対して、敬意をはらおう。

他に対して、敬意をはらおう。

すべての方々のご冥福を祈ります。

心を受け継がれた、すべてのご家族の方々に

敬意を表します。

アガサ

0

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate ≫