お盆

お盆の謂れや行事は、日本で生まれ育つ私たちにとって

深いものがあります。

特に、初めてお盆を迎えるのは ことのほか 様々な思いが

致します。

心安らかに・・・

大事な家族や人を思い願いつつも、

心の平安が必要なのは、願う私たち自身なのだと思えます。

最近頂いたメールの一部を掲載させて頂きます。

多くの方々もそう思われることと思います。

– – – – –

お盆が近いせいでしょうか。心がザワザワ。
どうして◯の初盆の準備をしているのだろう…
私達親は生きているのに。
順番が違う…
去年は一緒に過ごしていたのに…
など色々な事を考えて苦しいです。

側にいてくれている。
分かっていてもこの眼で見たいです。
抱きしめたい。
この悲しさ、苦しさはいつまで続くのでしょう。
本当に笑って思い出せる日が来るのでしょうか。

なんだか毎日苦しくて。
アガサさんに聞いてもらいたくて。
愚痴ですね。

– – – – –

愚痴だとは微塵も思いません。

すごく自然な気持ちです。

” 愛しい家族を信じる。”

これに徹すること。

どれほど長い時間、月日、年月がかかろうとも

心底、しみじみとわかるまで徹すること。

その過程では、

信じるということが、

たった”信じる”ということでさえ

とても難しいことだと思い知らされます。

どれほど、自分が口先程度、文字程度の”信じる”を

繰り返しながら生きてきたのかを 思い知ります。

私たちは、物に囲まれた生活をしています。

物にあふれる生き方に慣れています。

そういう生活に、どっぷり浸かっています。

ですから、目にみえて、手でふれられることだけが

「すべて」で「実存」するのだと思えます。

それが「実感」だと思っています。

目に見えず、手で触れられない状態に慣れていないので

不安でいっぱいだろうと思います。

誰もが、今ある”当たり前”な日常を当たり前と思い込んでますし、

その”当たり前”が変わることなど 露ほども思わないのです。

悲しさ、辛さ、苦しさがいつまで続くのか・・・

それは人それぞれだと思います。

個人的には、それらが消滅する日はないと思っています。

だからこそ、覚悟というものが少しずつ芽生えてきます。

だからこそ、生きること、死することが貴重だと思えます。

お盆。

私は怠け者で無宗教な人間です。

子どもの頃から周囲に”人”の存在を認めざるを得なかったので、

お盆だからどうこうという意識はありませんが

生前、そうしたことをきっちりしていた祖母達に思いを馳せ、

晩年、お遍路さんに行き出した父を思い、

場所がどこであろうとふと心が静まる時や穏やかになれる時に

心で話しかけたいと思います。

それは特別なことではなく、自分を見つめ直す意味でも普段から

言葉や思いひとつひとつを噛み締めながら心をこめて話しかけること。

それで十分だと思っています。

大事な人ならば、

大事なその人を信じること。

信じる_

そのなかに自分都合の感情を一滴も混ぜないこと。

信じるということは、自分を忘れ去ることだと思います。

どのような状況に移り変わっていこうとも、

悲しく辛いことに馴染むことは無理でしょうけれど、

応じていく心(覚悟)を持ちたいと思います。

どうぞ、お身体をご自愛ください。

健康が何よりです。

アガサ

+4

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate ≫