交流に臨む心
交流時期なども含めて、ご依頼前、ご依頼時、ご依頼直後に
お尋ねになることが多くございます。
私の経験から常日頃思っていることを述べさせて頂きます。
自分の経験や考えが正しいという考えは少しもありませんので
地味な一霊媒の長いつぶやき、と思って頂ければ助かります。
血縁がすべて、とは思っていません。
夫婦というのはそもそも、血縁関係は ほぼありません。
養子縁組の場合には、親子でありましても血縁関係はありません。
でも、
立派な親子であり、夫婦であり、友人であります。
そういう意味で、血縁がすべてとは思っていません。
血縁関係がありましても、反面的な存在というのももちろんあります。
世の中これだけ、人間がおりますから、私たちをとりまく環境も様々で
ひとりひとりの人生もまた、様々です。
人というのは大抵、不幸せに自分を思いますと、
その原因や理由を探そうとします。
” どういう理由で出会うのか?・・・”
” なんでこうなってしまったんだろう?・・・”
とか。
そのように考えたって、現実がどう変わるわけでもありません。
で、簡単なのが、カルマや何とかということに結びつけること。
そんなんで納得出来るんですか?(苦笑)
何でもかんでも紐づける必要もないと思います。
紐づける癖、考え方がいつの間にか執着や固執へと
変貌していくことも多いにあります。
時期に関しましては、一概には申し上げれません。
数ヶ月経ってからの方が良いようにも思います。
でも、その数ヶ月が非常に辛さや悲しさが大きいです。
辛くて 悲しくて・・・
もう狂いそうで・・・
不安、無気力、脅え、様々な感情の波が押し寄せます。
心の霧も濃い時期でもあります。
ただ、これもひとりひとり違います。
時期にしても、ご関係にしても、何にしても、
最後は、ご依頼人のお気持ちがどうか? です。
依頼をしなければならない、こともありませんし、
世の中には、ビジネス霊媒もおられますから、
決めるのは、ご自身です。
ただ、
自分の気持ちを通す場合には、同時に、覚悟も必要です。
何でもそうだと思います。
” 希望とは違うことも起こりえるだろうが、
どこまでも相手(大切な方)の平安を尊重するんだ。
自分の感情よりも。”
というような覚悟を持つこと。
いつも覚悟をして、私も交流に臨みます。
スピリチュアルやカルマやなんたらとそんな言葉や考えなど、
私は嫌いです。
そんな簡単なもんじゃない。
人生も交流も、言葉に当てはめられる程 ちっぽけではありません。
藁をもつかむ思いでインターネット検索をされる・・・
ご友人知人から耳にされる・・・
様々な方法によって、ご依頼に至るのです。
ご依頼なさる方々すべてが、
会いたい方との交流を実現して頂きたい_
この思いがいつも私の胸にありますが、
その思いは自分の欲だと捉えています。
私が交流に望みを抱く自体、交流には無関係だからです。
交流は、
” 相手を尊重する ” ということが口先だけではなく、
心底からのものかどうか、です。
ご依頼人の “こう言ってほしい願望” があるからといって、
会いたい人の 今の思いを覆い歪めてしまうことは
致しません。
ご依頼人に喜ばれるように取り繕ったりは、絶対にしない。
エンターテイメントではないし、
霊媒は、人気商売ではありません。
交流というのは、事実を歪める余興ではないのです。
文字にすると簡単そうですが、
ご依頼人の願望とは違うことをお伝えした場合、
一瞬にして 空気は凍り付きます。
悲しみの深い方々を目の前にしてはっきり言うことは、
胸が張り裂ける思いです。
それでも、私は正直で忠実で在り続けたいと思います。
すべては、
” 会いたいと望まれている方が のびのびと話せるように “。
私たちがどれだけ悲しく辛く思っても、
交流の時は、私たちの感情を横に置いて頂きたいのです。
いつも申し上げています、
” ご本人の気持ち、自由を尊重してあげてください。” というのは、
” 会いたい人 ” を労い、交流の負担を少しでも少なくするためです。
その場を同じくする者全員、
つまりは、ご依頼人と私が思いやりを持ち合うことが
交流に臨む心だと思っています。
ご依頼人のお気持ち_
会いたい、話したいお気持ちは、わかり過ぎる程、わかります。
愛する家族、愛する人、大切な人の平安を自分の感情よりも
心底願い望むことの難しさがあるにせよ、
どんなに時間がかかっても、
一生かかっても、
いつか 必ず 心から願える時は 来ます。
その頃には、揺るぎない愛と信頼をご自分でお感じに成ります。
霊媒なんか、必要でなくなります。
交流は、
愛する家族、大切な方の安否やお気持ちを伝える場であると共に
ご依頼人ご自身のお気持ちを再確認する場でもあると思います。
心配ご無用。
アガサ