じいちゃんに会えたよ!

前夜・・・だったか、前日のいつだったか思い出せませんが

何度となく奇妙で確かな感覚がありました。

感覚というのは当人にしかわからないもので、とても儚げです。

あやふやなもののようにも思えますが、人様の体験を不意打ちに

体験しますので、私にすれば非常にリアルです。現実的。

立っているまま、自分のなかから ” 抜け出そう ” とする自分に

(ま、待って。これって、ぼちぼち、私は他界するの?)

頭の天辺から上へとあがっていこうとする自分だけど、自分だけ

ではない ” 何か ” に対して 焦ってしまいました。

( まだ私にはいろいろとせんとあかんことがあるのに!)

人間というのは、その場にならないとわからないものですね。

頭ではわかっている理解しているつもりでも、やっぱり ” つもり “程度なんですね。

その時になると本性というか、焦りにも似た感情が揺れます。

心の準備がまだ出来ていないし、現実、何も準備をしていないのですから。

(こんな大変な時期に、家族を置いていけへん。まだ、そっちには行かないから!)

誰に向かって、どこに向かって、私は喧嘩腰になっているのか・・・(苦笑)

こうしたとてもリアルな体験を何故するのかが、

Aさんご夫妻にお会いするまでは全くわかりませんでした。

ただ、何十年と続くそうした体質に飽き飽きする私が居るだけでした。(笑)

Aさんご夫妻をお迎えする前に、身体のある部分への痛み、

そして、

楽しそうに笑っている初老の男性と女性(女性の視点は私)、

近くには多くの人達、柴犬のようなワンチャンも一緒で

とても楽しいところをしっかりと見せてくださいました。

( わぁ〜、楽しそうだなぁ・・・)

< ・・・じいちゃんに会ったよ、と伝えてください。じいちゃんは随分若返ってた!>

そうおっしゃりながら、大笑いなさっていた初老の女性。

中年と言ってもいいぐらい、とても若々しい美人な方。

( わかりました。Aさんご夫妻に確認をとります。安心してください。)

Aさんご夫妻をお迎えして、交流はいつものように静かに始まりました。

先程の女性がメインで、少し後方に 若返ったおじいちゃんも来られました。

見えるお姿、性格(お人柄)、というようところをお伝えし、

おおよその心当たりがあるかどうかを確認後、

約束したことをAさんご夫妻に伝え始めました。

「 この女性が『 じいちゃんに会ったよ!』とおっしゃっています。

 お分かりになりますか?」

Aさんご夫妻はとても嬉しそうに、感涙なさっていたように思います。

「 柴犬かなぁ〜・・・うちのワンコよりも脚が長い(笑)わんちゃんが

 傍に居ます。嬉しそうですよ。お分かりになりますか?」

おふたりはびっくりしたように、そして、とても喜んでおられるご様子。

「 おわかりになるのなら、いいですね。」

そして、私の身体に知らされる痛みの部分と痛みの種類など、

わかることすべてを描写しました。

「 多分、そうだと思います。」

「 そうですか。多少でもお分かりになるのなら、それで良いです。」

そうしたやりとりをしていて、ふと、あのことを思い出しました。

頭の天辺から、抜け出すアレです。

「 Aさん、妙なことを申し上げてすみません。

 前日に何度も、こういうことが起きました。」

失礼にならないようにと願いながらの前置きをし、

自分から抜け出すような一連の体験の詳細を伝えました。

すると、Aさんは、泣きながらおっしゃっていました_

「 祖母の最期がどのようであったのか・・・心配でした。

 祖母にどういうふうだったのかと何度も話しかけていました。」

「 なるほど。あの体験は、可愛いお孫さんへのお返事だったんですね。

 あのような体験はほとんどしませんので、正直、私はとても焦りました。

 そうでしたか。そのような理由があったのなら、私も納得がいきました。

 おばあさんはそれを伝えたかったのですね。ありがとうございます。」

おばあさんはその後も、いろいろなことを話してくださいました。

Aさんのご主人へのこと、お仕事のこと、

Aさんのお心、お身体のことなど。多岐に渡りました。

交流後半で、Aさんが是非とも尋ねてみたいとおっしゃったご質問に

対してのおばあさんのお気持ちはとても彼女らしいと思えました。

内容は、ちょっと理由がありまして、割愛させて頂きます。

それでは、Aさんから頂いたメールに助けて頂きます。

– – – – –

(略)

アガサさんが義母に似ていて、なんだか初めて会ったような気がしませんでした。
(ア:私はどこにでもいるような普通のおばちゃんです。笑)

帰宅してから左脇腹あたりの痛みで調べたところ、やはり◯○ガンでそこが痛むらしいです。
しかし、祖母の持病?の◯○でも、そこが痛む時があるらしいです。
(中略)

ろくに犬の世話の仕方も分からなかった私達家族に飼われてしまった、
柴犬◯○が一緒に来てくれるとは思っていませんでした。
あの頃は本当に申し訳なかったと思っておりました。
それでも少ないお小遣いで◯○を買って、半分こにして横に座り
一緒に食べた大事な思い出があります。
なので嬉しかったです。

祖母は私が産まれた時は40代で、周りよりとても若い『おばあちゃん』でした。
毎日顔の産毛をきちんと処理し、薄化粧をして、常にニコニコしていました。
肌が綺麗で年齢よりは若く見えました。

(中略)

「じいちゃんに会えたよ」
最初のこの言葉は本当に本当に嬉しかったです。
あちらで会えてまた一緒に暮らせて、とても喜んでいると聞いて嬉しくて仕方がありません。
ジャンプしながら万歳三唱したいくらいです。

他界する時に苦しまなかったか本当に気掛かりでした。
祖母は今年の◯月に亡くなったのですが、前々日の深夜に私が洗面台で歯磨きをしていたら、
ハッキリと背中中央から左側を優しく押される感覚がありました。
すぐ振り返っても誰も居ませんでした。

スピリチュアルなものは信じていなかったので、まさかなぁ…と思っていた矢先に
亡くなってしまいました。
(中略)
(ア説明:事情があり、その時を見舞うことが出来なかったAさん)
後日親戚に改めて聞く事が出来ましたが、
「その時どんな気持ちだったんだろう、寂しかったかな…」
とお見舞いにあまり行けなかった事をとても後悔しました。
(中略)

夫に対しての言葉も祖母が生前言っていた事と全く同じでした。
私に対しての言葉は、魂になってからの言葉なんだろうなと思います。
「もう少し夫に感謝しなさい。これからもっと良さが分かってくるから。きちんとご飯を作ってあげなさい」

全くもって言い返す言葉が見つかりません。
仕事を理由に料理を疎かにしていたのが見られていたなんて…
体調が治り次第しっかり料理して支えたいと思います。

途中でアガサさんが私をちゃん付けで呼ぶのがドキッとしました。
祖母は私を『◯○ちゃん』と呼んでいたので。
(ア:おばあさんがちゃん付けで呼ばれたので、そのまま、そうお呼びしました。)

(中略)

私にとって祖母が『母』でした。
毒母の毒を受けて保育園児のころから「死にたい」が自分の基盤に在りました。
それが私の普通でした。
「祖母がまだ生きているうちは死ねない」と自分に言い聞かせながら生きていました。
この「死にたい」は私の意見を怒鳴り合いながらも真剣に向き合ってくれる夫と
一緒になってからいつのまにか消えておりました。
祖母はそこの部分で夫に感謝しているのかもしれません。祖母の言う通り、私は幸せです。

(中略)

夫が「とても大事で貴重な経験をさせてもらった。連れて言ってくれてありがとう。
おばあちゃんとまたお話出来て楽しかった。会ったことがないおじいさんとも会えて凄く嬉しい」
と私に言ってくれました。
(中略)

事前に祖母には「アガサさんにあまり迷惑かけないでね」と念じておいたのですが、
◯◯を買わせたりしてしまったのですね(笑)すみません。
(ア:いえいえ、とんでもない。笑 どのことも私にとっても大切なことです。)

(中略)

夫は帰りにスッと自然に私の横に並んだアガサさんがすり足気味に歩く祖母に見えたそうです。
私も、最後見えなくなるまで手を振って見送って下さったアガサさんが、
『小学校登校時に私が見えなくなるまで家の前で手を振って毎朝見送ってくれた祖母』と重なって
胸がいっぱいになりました。

(中略)

今後は祖母に見守られている自信を持って、それに恥じない生き方をしたいです。

(略)

– – – – –

他界から交流に来られる方おひとりおひとりに人生があります。

ご依頼をなさる方も、そうです。

人ひとりの人生というのは、他人からすれば他人事ですが、

一瞬であっても関わらせて頂く私にとっては

その瞬間、その方の人生を生きることなのだと思っています。

誠意を尽くせなかったら、偽善に成ります。

誠意を尽くし正直であることは、普通なのです。

こうしたこと、交流に慣れてしまう方もおられると思います。

逆に、初めてだからと恐縮される方もおられます。

どんなに慣れても、初めてであっても、

ご家族に対して、愛しい人に対して、

誰に対しても、誠実さと謙虚さをお持ちになることは大切なことです。

私自身どれだけ回数を経験しても、慣れることはありません。

慣れを少しでも感じてしまうとそれは必ず、油断(横柄)へと繫がります。

ですから、交流を”スピリチュアルなこと” という捉え方を私はしていません。

現在、”スピリチュアル”と呼ばれていることは、決めつけが多いように思えます。

交流で私は人様の人生を体験させて頂いていますから、

「こうだからこうなんです」とはとても言えないのです。

交流というのは、泣くためでもなく、感激するためでもありません。

与えてもらうものではないと思っています。

交流に関わっている限り、同情してしまうようなご事情を話されても、

どなたの肩も持ちません。

人と人が、真実に沿って話す場に肉体の有無など関係ないのです。

物質的なことや見た目ではなく、本心(真実)かどうか_

そこに私の強い関心があります。

それは霊媒だからではなく、何十年という長い月日のなかでの

経験の積み重ねと性分に寄るものです。

相手がどなたであろうと、すべては公平であることが、

自分が伝える交流のなかで、尊重すべきものなのです。

いつも公平であることは、時に、人から誤解を招くこともあるでしょう。

Aさんのおばあさんは、真っすぐすぎる気質のため、

Aさんのお母さんに誤解を与えてしまったのかもしれません。

でも、おばあさんは、とても真っすぐな方。

私は、彼女の真っすぐで合理的なところに強く惹かれました。

< じいちゃんに会ったよ!>

そうおっしゃっていた美人のおばあさんは、

とても嬉しそうで、しあわせそうでした。

おじいさんとおばあさんのように、

Aさんご夫妻はいつまでも仲良くお暮らしください。

アガサ

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