どんなに時間が経とうとも

今朝は寒かったです。

全ての窓には、結露がかかりました。

11月ぐらいの寒さがありますが、このぐらいの寒さが好きです。

空気が次第に透明度を増して、陽も部屋のなかまで入ってきます。

私の生まれた季節が近づいてまいりました。

M様から素敵なお写真と共に頂いたメールの一部を

掲載させて頂きます。

– – – – –

(略)

サインを求め過ぎてはいけないと思いつつ、つい探してしまう自分がいて、
先日の記事は嬉しくなります(^_^)

偶然とは思いますが、ちょっと不思議なことがありました。
◯月のある日、彼の誕生日。
あちらでは誕生日は関係ないかなと思いつつ、もしまだこっちにいたら、(略)
何か記念なる事をしたはずだから、やっぱり今年の誕生日は、例年と違う何か
特別な事をしてあげたいと思いました。
色々考えましたが、割りとすぐ結論がでて、彼が私を初めて本格的な登山に
連れていってくれた時の、思い出の山に久しぶりに彼を連れていこうと思いました。

(略)

昨年から運悪く、登る日が毎度毎度悪天候にあたり、今年も3度登山にいきましたが、
うち2回は悪天候で途中で断念、下山しました。
誕生日もその1回です。(略)
途中の山小屋に泊まった翌朝も天候が回復しなかったので、翌朝泣く泣く下山しました。

その山小屋で、です。
雨風でびちゃびちゃになって山小屋に到着し、失望しながらとりあえずチェックインしたら、
通されたお部屋が、なんと彼の名前。
私は彼を『◯◯くん』と呼んでいたのですが、お部屋が『◯◯』でした。
何度かその山小屋に泊まってますが、その名前の部屋があったなんて知りませんでした。
しかも珍しい事に、個人客は私1人で、(略)私は団体用部屋を独り占めに…。

(略)

お誕生日の夜に、彼が私と二人きりでいたいと思ってくれてるのねという事を
すっと信じられました。
夜中じゅう外は雨風の音もして、広い部屋に1人とは、なかなか怖いと思うのですが、
全く怖くなくて、寧ろ彼がいるんだろうなと安心して、手足を思う存分広げて (笑)
ゆっくり眠れました。

アガサさんが書いておられたように、頻繁にあったら、ありがたみが薄れますよね。
それでもやっぱり淋しくて頻繁にサインがほしいですが、これはもう我慢するしかない…。

– – – – –

こうした偶然の出来事に、私達はとても励まされます。

無理矢理、結びつけたい時もあれば、

自然と すっと心に入ってくることがあります。

馴染む、というのでしょうか。

“今もこちらで一緒に居ることが出来れば、どんなに幸せだろう!”

誰しも思うことだろうと思います。

我が身に降り掛かってきた悲しみを経験しているから

心底 そう思え、

心底 そう願うのです。

時間のある世界に生きる私達は、一方向。

過去に遡ることは出来ず、未来の方向だけ。

進むのは、未来。

じっとしていても、何もしなくても、

悲しくても 辛くても、

楽しくても 嬉しくても、

時間は 未来へと流れています。

一方向にしか進めないのです。

Mさんが彼と出逢い、

彼は若くして、他界され、

Mさんが深い悲しみのなか、ネットで検索されて、

アガサというのを見つけられ、

Mさんが勇気を出して、連絡をされて

Mさんと私は出逢い、

そして、

彼の心をMさんにお伝えしました。

これも時間の流れ。

Mさんと彼の出逢いを悲しい出逢いだとは思いません。

おふたりの愛は 今なお 存在するからです。

別れ、ではありません。

出逢いも記憶もなくなったのでは ないのです。

深い悲しみのなか、日常でのもやもや、様々なことを

日々乗り越えておられます。

これは、Mさんに限ったことではなく、大切な方の他界を

経験なさった方々は そうでしょう。

ちょっとした偶然のような出来事が 突然 目の前で起こる_

心を揺るがす深い悲しみを経験した方々にとって

そのちょっとした偶然に、どれほど励まされるかわかりません。

どれほど 心が救われるか 計り知れません。

嬉しい偶然は、いつも 起きるわけじゃない。

煌めく偶然の数で、愛しい人の愛情を計れるわけでは

ないのです。

深い悲しみを経験してまで、

私達は、何を信じるか?

なんのために 生きているのか?

ぽっかり空いた胸の空洞を埋めるまだ見ぬ何かがあるのか?

自分の存在価値は 一体なんなのか・・・

こうしたことを次から次へと頭に浮かぶ時も あります。

人生の中で、信じられなくなることは いっぱいあります。

私にも、もちろん、そういうことがありました。

何度も 何度も。

これからも あると思っています。

信じる、信じられないという感覚や感情は、

とてもあやふやな感覚だと 私は思っています。

その時の感情によって、信じられる時もあるし、

全く信じられないときもあります。

感情は、大海に出ている小さな小舟みたいなもの。

揺れて、揺れて、揺れまくります。

静かな時も あって、

嵐の時もある。

寒さに凍える時もあれば、

からっからの炎天下の時もあります。

私自身の日常を振り返っても、思うんです。

生きる指針をなくしてしまったら 終わりなのか?

愛する存在をなくしてしまったら 生きる意味がないのか? と。

そう思ってしまいますけど、そんなことはありません。

何のために 生きてるのか

誰のために 生きてるのか

何かがなければ 誰かのためでなければ 生きれないのか。

私の考えは、No です。

何のために生きてるか 分からなくても良い。

誰のために生きてるか 分からなくなっても良い。

この身体は、与えてもらったらしいから、

やっぱり 大事に思えます。

今まで休む暇もなく、ずっと働いてくれていたじゃないの。

誰のためでもなく、見返りを期待して動いているわけでもなく。

大事にしなきゃ。

大事にしてあげたいと思うのです。

私達は、失いかけて、失ってから 気づくことの方が多いように

思います。

健康な状態や、大切な存在、平凡な生活などが 崩れ失ってから

どんなに恵まれていたのかを気づくのです。

気づいたのだから、大切にしなきゃ。

大事にしないと。

愛する人がこの肉眼で見えなくとも、終わったわけじゃない。

” 何か喜ぶことをしてあげたい “

そう思えることは 大変素晴しいことです。

愛は、この肉眼と肉体では感じることが出来ません。

形のある肉体に閉じ込められる大きさではないし、

言葉で表現出来る単純なものではありません。

とても大きくて、とても温かくて、美しいのです。

そして、眩しく光り輝いているのです。

心が洗われるような感じです。

このことは、皆さんの愛する方から教わりました。

それを、何度も伝えたいと思います。

機会を頂いた度に、お話ししたいと思います。

愛を知ると 心が深くなります。

心が深くなりますと 悲しみも喜びも深く 感じるのです。

人の温かさも 深く 心に沁み入り、

動物の純粋な愛も 心に沁み込むのです。

生きていくことが辛いことも たくさんあります。

生きることの意味がわからなくなることもあります。

何のために、誰のために・・・

そんなに大きなテーマは、一生かけたって 分かりっこないんです。

分からなくてもいいと思います。

深い悲しみを我が身に刻んだのですから、

どこかの講座や だれそれの書籍を読まれなくても

参考にされなくても

ご自分がご自分で 十二分に 人生を歩んでいるのです。

生きるというのは、愛すること。

愛を経験するということは、きっと

深い悲しみを経験することでもあるのだと思います。

そうやって ようやく、

人や動物、自然を含むすべてに 温かく接していくのだと

思うのです。

それが生きていく、ということなんだろうと思います。

どんなに時間が経とうとも

愛するということを学んだのですから

これからも 愛し続けていきましょうか。

私の話は、余計なお節介話ということで(苦笑)

ご勘弁ください。

それでは、

Mさんが添付してくださった美しい日本をご堪能ください。


日本人の心と精神、富士山からの夜明けです。
心が洗われると言われますね。
存分に 洗ってください!
私も 洗います!

アガサ

+2

2件のコメント

  • KK様、コメントをありがとうございました。
    おふたりで毎日をとても楽しくお暮らしになれたのは本当にしあわせなことです。世の中には、様々な夫婦関係、家族関係がありますから、思い出などとおっしゃらずに、ご主人と出会えたこと、楽しく過ごせたことは、おふたりのお人柄によるものと相手を思いやる心が合致したんだな・・・ラッキーだな、私・・・そのように思われてみてください。しあわせは過ぎ去ったと感じてしまいがちですが、しあわせは与えられるものだけではなくて、自分で作っていくものでもあります。(そう信じています。笑)
    どうぞ、あれしゃちゃいけない、これしちゃいけない、幸せを感じてはいけない、美味しいものを自分だけ食べてはいけない・・・等と思わずに、与えられた命ですから、大切になさってください。
    時に、自暴自棄になります。生きているのが辛いことだらけのように思います。自分だけが孤独のようにも思えます。
    凹んでいても、自己憐憫に浸っていても、24時間。
    「あなた、これ好きだよね!私、食べちゃおう!味わってね!」と、涙流しながらでも、美味しいね美味しいねとお召し上がりください。
    それが、愛情です。
    過去には戻れない。前にしか進めない。これは、すべての物(者)がそうです。(ですよね?)
    私も辛いこともありますが、そう思い直すことで、また、生きようと思えます。
    自分を支えてくれているのは、家族だけではなく、世界中の全く知らない人達や動物達から支えられているのだ、ということも、どうぞ、心の隅っこにでも置いてあげてください。
    実際、その通りなんですもの。
    勇気ふりしぼって、コメントをくださり、有難うございました。嬉しいです。

  • コメントありがとうございます。
    いまでも何時でもそばにいて、一緒に過ごしていた時のまま毎日が過ぎていき、時々もういないことに愕然として、涙が出る日々を過ごしています。
    ただ、アガサさんのブログを少しずつ読ませていただき、彼が全く無になったわけではなくて、あちらの世界で彼は彼のまま過ごしているのであれば、かわいそうに思うこともないし、また会うことが出来ると思えて救われる思いです。
    毎日、楽しく幸せな日々を過ごしたと言っても、私ばかりが病気したり怪我したり、心配ばかりかけたうえ、何かと頼り切って過ごしていたので、これ以上心配はかけさせられないので、しっかりしないといけないと頭ではわかっています。
    あちらの世界に行くことがい待っていたのであれば最後まで毎日楽しく充実した日々を送っていて、突然ですが、なんの恐れもなく、苦しむこともなく、あっという間にあちらに行くことができたのはある意味ご褒美のような逝き方だと思います。
    見事に生きて見事に逝ったとおもいます。
    彼が幸せだったと思ってくれて、こちらの心配をしないで待っていてくれることが出来るように日々の生活を楽しみ、一緒にいたときの思いのまま、少しずつ前を向いて生きたいなとおもっています。
    アガサさんの体調が良くなられて、また、何かのご縁で繋がることはあれば、交流をお願いすることも出来るかもしれません。
    いろいろな繋がりからこのブログを知り、あちらの世界があることを信じて生きていけることは、私は幸運でした。
    本当にありがとうございました。

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