心が繫がる、ということ。

– – – – –

息子とこうして交流ができた事を大変嬉しく、ありがたく、思っております。
(略)

息子はもう働いているとは、驚きました。
いつまでも大学生のままではないのですね。

パリッとしたスーツ姿で、嬉しそうに登場してくれた事に、
息子の私を安心させたいという心を感じ、涙があふれてきます。

息子は、私と娘の事や、家族の在り方、いろんな事へ気にかけてくれている。
息子のやり方で、私達を見つめ守ってくれている。

いつもその事へ感謝しておりますが、今回は特にその息子の優しさと強さを感じて、
私の中へ安堵感がぱーっと溢れ続けています。

私は息子へ至らなかった部分や息子へ申し訳ない気持ちが、常にあります。
この罪悪感はなかなか消えませんが..、
息子が大きく優しく強くこちら側を見つめてくれているのなら、
それに答えられるような人間にならないといけないなという気持ちに今回はなりました。

今晩の夕食に、息子からのリクエストの献立で作りました。
(略)
「一緒に食べようね」と息子に問いかけながら、食べました。
涙はでませんが、共有しているという優しさに包まれているような気持ちになりました。
そして不思議な事に、私も娘も「いつも以上の美味しさ」を感じました。
これは息子のパワーだと、信じています。

特別な事をしなくても、普段の生活の中での小さな幸せ、
それを息子はいつも感じていててくれた事にとても感謝いたします。

「◯◯○」というワードが出てきてくれて、本当に、嬉しかったです。
同じ空間で共に過ごしていたという事を、思い起こさせてもらえました。
息子のコタツ布団、時々干さないとね、と。
(この部分アガサさんと一緒に笑えて、嬉しかったです)

昨晩の夢に、赤ちゃんの頃の息子が出てきてくれて、
少しだけお世話をさせてもらいました。
(息子はたまに、夢に出てきてくれています)
(略)
息子とつながっているんだと、この自分の感覚を大切にしています。

そして、アガサさんにして頂いている交流も、大切にさせて頂いております。
胸のあたりがあったかくなるような、開けるような、そういう感覚にさせてもらえております。

アガサさんはいつも、息子と丁寧に交流してくださり、そしてそれをまっすぐに伝えてくださり、
私は息子と交流できる事は当然嬉しくありがたい気持ちなのですが、
息子とアガサさんが交流している事自体も、とても嬉しくあったかい気持ちになっているのです。

生前の息子は、同級生よりも年上の方とのやりとりに安心していたふしがありました。
きっと、アガサさんと交流している息子は、アガサさんから安心と安らぎをもらえているのでしょう。
だから、アガサさんへそういう意味ででもいつも感謝をしております。
今回も息子と交流をしてくださり、本当に、ありがとうございます。

スカイプ、今回はきちんとつながって良かったです。

(略)

– – – – –

どなたかと初めて会う時、初めて話す時、ある程度、緊張します。

交流ともなれば、それプラス、違う種類の緊張が私にはあります。

責任、というものに近い緊張です。

そうしたものも、話していくうちにお互いの信頼関係が繋がり、

増してゆき、友情のような感覚が芽生えてきます。

こうした流れは、こちらもあちらも同じのように思えます。

心と心が在るからです。

違うとすれば、偽は通用しない、ということ。

私達の世界では、外見や言葉を使ったコミュニケーションで

大雑把な関係が成立します。

自己アピールが巧みな人とそうでない人がいます。

それに伴って、損得もあるのかも しれません。

でも、他界は違います。

偽善や嘘は通用しない。

権力や肩書きなども通用しない。

それらは、何の価値もない。

だから、続けようと思えるのです。

普通の人が どれほど美しい心の持ち主か。

地味な人が どれほど愛情深いか。

目立つことに興味のない人が どれほど勇敢か。

大切なことは、肉眼ではパッとわからないもの。

深い辛さと苦しみと悲しさを経験してこそ、

本来の眼(心)が開くのだと思います。

どれほど大事な存在だったか・・・

辛い程の悲しみを経験することになって気づき、わかるのは

残されたと思えてしまう私達だけではありません。

こちらにおられるご家族やご友人も、そう。

あなたの 他界された大切なご家族、大切な人も、そう。

とりかえしのつかない思いを募らせる毎日で

どんなに自分のことが嫌になったとしても、

あなたを嫌いにはならない。

憎むなんて、しない。

だから、周囲の 全く知らない他人様が幸せそうに見えても

ひがんだり、憎んだりは しない方が善い。

後ろめたく思う必要など これっぽちもない。

もしそうしたものがあるのなら、そんなものは

捨ててしまった方が善い。

普通の何気ない平凡な毎日が どれほど幸せなのか_

あなたが身にしみてわかったはず。

これは経験した人にだけ その真価が分かるのです。

辛いほど、悲しいほど、切ないほど、分かっておられる。

特別なことばかりの人生ではないからこそ、

人生に深みが増すのです。

ご飯やおかずを作ったって、物質が ” 減る ” わけじゃない。

量が減ったらわかりやすいけど、それは仕方ない。

「 作ったって、供えたって、空しいだけ・・・」

そう思ううちは、自分の感情の方が比重が大きい。

物質的なことにばかり着眼するから、分からないだけ。

このどうしようもない思いは、この悲しみは、一体 誰のための悲しみなのか_

そう自分に問いかけ続けたことも、私にはありました。

家族のために疲れていてもご飯を作ってくれる気持ち、

淋しく空しく思えても、平穏と幸せを祈る気持ち。

損得ではなく、自分のためでもない、相手を思う気持ちが

あなたの大切な人の心に 届くのです。

霊媒の言葉だけが届くんじゃない。

一緒に過ごした何気ない日々、日常で培った思いの方が

どれだけ大切で、どれだけ嬉しく思われるのかは

言うまでもないのです。

それは、肉眼では見えない。

物質ではないから。

物は必ず 朽ちます。

必ず 劣化する。

私達側で言うところの”有形”は、誤摩化しても無理。

朽ちて劣化することが自然なのです。

物は大事にすれど、心はもっと大事なのだということを

大切な家族、大切な人の他界によって 私達は身にしみて

分かります。

切なくなるほど、身に沁みるのです。

長い年月をかけて、心底 わかってくるのです。

肉眼で見えることは大事ですが、それだけに頼ってしまったら

それだけが ” 存在する ” と思い込んでしまったら、

大切なことが 見えないまま。

子どものために、親がご飯を作る。

親のその愛情が肉眼で見えるのか?と言えば、見えない。

見えるのは、料理。

愛情や精神は、見えない。

作っても供えても、確かに 物理的な量は、減らない。

そこだけに着眼してしまったら、子どもさんが気の毒で

滅茶苦茶だと思います。

(きついことばかりを言い、スミマセン)

子どものために作られたご飯の味が

いつもより美味しく思えたのは、

親子、家族の心がお互いに繫がっているのを

心が認識したからです。

心が認識しますと、” 数 ” を求めなくなってきます。

ぎゅっとした愛情を認識しますから、回数は無関係。

Yさん、

お母さんを支えたいと思う息子さんの気持ちを

どの言葉で伝えれば 十分に伝えられるのか、

頼もしさをその言葉以外でどう伝えれば、

息子さんの心そのままに伝えきれるのか・・・

言葉に詰まる時が何度もありました。

それほど、息子さんは成長なさっているのです。

お母さんが自分の好物を作ってくれたことに

息子さんは喜ばれました。

いくつになっても、嬉しいもんだと思います。

しかも、オロナミンC付き!

ア独り言:

オロナミンCか・・・

大昔、徹夜続きの時に飲んでたなぁ〜(笑)

= おまけ =

先週のある朝、雪が降っていました。
雪景色も、冬とは違うなぁ〜 と思いました。
どこか、明るい感じがします。

マイナスも朝方のみとなり、マイナスにもならず、1度や2度となりますと
雨戸を開ける時には「暖かくなったなぁ」とほっと息をつけます。
それに馴染んできますと、突然のマイナス5度や雪となると
「 寒っ!」
と言ってしまいます。(笑)
気が緩むんですね。(大笑)

気が張っている時があって、気が緩む時があって、その両方や中間もあって
良いんでしょうね。(笑)

アガサ

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