やっと幸せに

交流準備をしていた時、届く声にいつしか、聴き入っていました。

< こんなに(私を)思ってくれるなんて、思いもしませんでした。

 何度も足を運び、話がしたいと思ってもらえて・・・

 もっと、主人を大事にしてあげたかった。>

話される言葉に含まれる思いに しばらく ぼんやりしていました。

( ご主人を大事になさっていたと思います。

 あなたのお声から、お人柄が伝わります。)

そう返事する私に、微笑みながら、彼女は続けて話されました。

<・・・私は、決して、良い妻ではなかったと思います。

 手を抜けるだけ、手を抜こうと思っていましたから。笑 >

( 私もですよ。笑)

肉体を脱した方と話す機会は、空気の流れがとても穏やかで

柔らかく、それをぼんやり眺めるのが好きです。

急かすこと、焦ること等、制限の多い物質世界との違いでしょうか。

柔らかな空気の移ろいに身を置いていました。

女性は、少し間を開けて、大切に話し出されたのです。

< 主人と出会って ようやく幸せになれました。>

言葉ひとつひとつに、彼女の人生、ご主人Mさんへの愛情と

感謝の気持ちがいっぱいで、私は静かに頷いていたように思います。

< それと、>

( はい。)

< 主人に最期に言いたかったことは・・・

 『 あなたに会えて、本当に幸せでした。』

 と伝えてください。>

胸がいっぱいになりました。

( もちろん、伝えます。)

こう返事するのが精一杯。

言いたかったことを言えて安心され、ニッコリでした。

その言葉にぼんやりしていた私の傍には、おられませんでした。

( あの言葉は、ご主人に言いたかったけど、

 言えなかったんだ・・・

 あなたがご主人に話すように心をこめて、必ず 伝えます。

 安心してください。)

懸命に、必至にお伝えするも、どうも、話が途切れ途切れに

聴こえてしまうことが私にはあります。

必ず確認するも、どうも、自分的に腑に落ちないこともあるのです。

そういう場合は、必ずといっていい程、後でメールに書いてくださるのです。

Mさんの交流にも、そのお知らせはメールにありました。

– – – – –

お花のことをしきりにお伝えくださるので、
いろいろ思いをめぐらせて見ましたら
お花畑のことではと思い出しました。
少し前のことですが、ニュース番組を見ていたらつい寝てしまって
ふっと目がさめたら、TVドラマの亡くなった夫から、
妻への手紙をある代書屋が書いて読み上げるシーンをやっていました。
手紙の内容は、”あちらの世界の美しいお花畑を君が来たら手をつないで
好きなだけ散歩しよう。それまでは元気でいて下さい。”のような感じです。
(自分の中ではお花畑ですが、きれいな景色だったかも)
普段TVドラマは全く見ないので、少し時間がずれていたら
TVを消していただろうと思うと偶然ではなく
そのときも妻からのメッセージのような気がしていましたが、
やはりそうなのかと感じました。

– – – – –

その直後に、別便でのメールを頂きました。

– – – – –

お花のこと、なんとなくしっくりこないので、いろいろ考えてみたら、
彼女がたくさんのお花の写真を撮り貯めているのを思い出しました。
気にはなっていましたが、見るのが辛くて今まで見ていなかったのですが、
フォルダを開いてみたらきれいな花の写真、彼女と一緒に自撮りした写真、
そして<鏡を見て>と言っていると伝えていただいたような、
僕が前で彼女後ろにいる_ちょうど鏡に映っているようなものもありました。

自分のことより、人のことを思いやる人でしたから
僕への贈り物のような気がしました。
泣けてしかたありませんでした。

– – – – –

交流中、

彼女は、ご夫妻でテレビを見ているとこを見せてくださいました。

それに、誕生日と、お花。

Mさんが前に立ち、後方に彼女が位置して 見守っていること。

見守っていることを感じられる日が来ますようにと願いながら、

鏡をぼんやり見てみてねとニッコリされながら話されたこと。

どれもありきたりだと思われますか?

私は何万回、その言葉を聞かされ、お伝えしたとしても、

ありきたりだとは思えません。

なぜなら、その人にとって その言葉に含まれる歴史があって

思いがあって、おひとりおひとり違う響きがあるからです。

普通の日常こそ、私には特別に素晴しく思えるのです。

どうも頭の回転が鈍かったのか、カチッとし具合が 今ひとつ。

「 私の聴き取り具合が鈍いのか、解釈間違いをしているのか・・・

 多分、聴き取りが違っていると思います。

 今は無理にあてはめないでください。すみません。」

とMさんにそう言いました。

 

車でお家に向かっておられる際中なのか、お帰りになった後に

思い出されたのかはわかりませんが、Mさんは思い出されたことを

メールに書いてくださいました。

そのメールを読みながら、交流にやってこなかった ” カチッ ” が

やってきたのです。

< 主人と出会って ようやく幸せになれました。>

この言葉は、なかなか 言えるもんではありません。

”ようやく、幸せになれた”と思える人がいて、

そう思わせられる人がいるということです。

誰かと出会って、皆が皆、そう思えるわけじゃありませんもんね。

ご主人と出会われる前、幸せをお感じになったことは少なかったかもしれない。

安心でき、信頼を寄せれて、愛情に包まれるなんて、

自分にはやってこない・・・

そう諦めつつも、毎日を懸命に生きておられたのだと思います。

そんなある日、Mさんと出会われたのです。

ようやく幸せを感じれたというのは

ものすごく、、、なんて言えばいいでしょうか、、、

ものすごいことです。本当に。

心底、そう思えます。

そう話してくださったこの言葉が、未熟者の私の心に

とても深く響くのです。

やっと幸せになれたとおっしゃるMさんの奥様は

今も ご主人を大事にされています。

ご主人もまた、今も 奥様を大事にされています。

やっと出会い、幸せをお感じになられたのですから、

これからもお互いを思うおふたりの関係は ずっと続くのです。

本当の愛というのは、とても穏やかな気持ちになれます。

いろいろとあったからこそ、です。

本当の愛を言葉で伝える時、耳に聴こえるはずの言葉には

限界があるように思えてくるのです。

交流で経験した大切な思いのひとつ_

” 愛は静けさの中に “ 在り続けるんだということ。

本当に、そう思えます。

どんなに辛く悲しく寂しくとも、最愛の人を信じれるんです。

最初は冷たい涙がいつしか、暖かさを帯びた涙に変わります。

そして、静かで穏やかな気持ちになってゆくのです。

アガサ

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