心で通じることの大きさ

交流の回想を更新するペースが衰えている私です。

書きたいな・・・

書かないとな・・・

という気持ちがいつも在るのに、

書けてない言い訳をさせてください。(苦笑)

書いていいのかどうか・・・

という思いがよぎるのです。

その思いが巡ることのひとつに、

交流内容を他の方々と比べてお考えになるのだなぁ・・・

ということがあげられます。

そのお気持ち、わからなくもないです。

この回想を書いたら、羨ましいと思われるんじゃないか?・・・

表現を変えた方がいいかな?・・・

それとも、この部分を省いた方がいいのかな?・・・

な〜んて、考えてしまうのです。

それで、手が引っ込むのです。(笑)

回想を書くことで、他界後の生をお伝えしているのですが

他と比べさせてしまう、羨ましいと思わせてしまうのは、

書き手(私)の考えや対応が足りないということです。

9割の方々がそのように思われたことがなくても、

1割の方々がそのように思われたことがあるのなら、

1割の方々をほっておくことは出来ません。

例え、考え方や捉え方の違いであろうとも。

交流というのは、つきつめれば、心で通じることです。

肉眼で見たい、肉耳で聞きたいお気持ちは察していますが

物質にこだわってしまいますと、歪んでしまいます。

心で通じることを軽んじてしまう、物足りなく思うのは

物質重視の世の中にどっぷり使ってしまっている私達の

ある種の偏見であり、欲でもあります。

世界的に有名な本の主人公の、有名な言葉のひとつに、

” 大切なことは 目に見えない。”

という言葉があります。

多分、ほとんどの方々がご存知の言葉です。

本を読んでいる時は、「そうだよねぇ。そうなんだよねぇ。」と

感慨深く、ため息まじりで 一点を見つめながらしみじみ

こう思える方々が多いと思います。

心ではわかっていることも、どうしても、心よりも感情を優先

してしまうのです。

感情の方が勝っている状態。

善い悪いではなく、単にその状態にあるということ。

交流は、その有名な言葉の通りです。

ご依頼人の肉眼と肉耳を用いる必要などないのです。

交流は、大切な機会であるはず。

ですから、心で見なくてはよく見えません。

心を持ち続けていると 大切な人とは通じ合えるのです。

悲しく辛い状態であっても、心は存在します。

更新のノロさ言い訳から書き始めていますが、

申し上げたいことは、

交流というのは、心を以て 心で通じ合うことであり、

心で通じることが真の理解と愛情を大きく育めるということです。

偏見や欲は、自分が伝える交流にはありません。

他界されてもご自分の偏見や欲を伝えたいんだ!という方と私は

繫がりません。

ご依頼くださる方の ” 大切な方 ” は、そうした類いの方々では

ないのだと心から信頼しているからです。

年末が近づいてまいりました。

様々な行事がありますが、大切なことはただひとつ。

大切なものは、目では見えないんだということ。

キラキラとしたイルミネーションや他のお家や人達を羨ましいとか

見たくないとか、自分には関係がないとか、そんなふうにお考えに

ならないでください。

あなたが淋しく、辛く、悲しい思いを持ちながら生きておられるのを

存じています。

けれども、心を腐らせてはなりません。

あなたが大切に思い、愛している方との連絡網である心を

どうか、大切に 大事になさってください。

心は 正直で温かい。

だから、私は 心が大好きなのです。

大切な人を 大切に思うように

ご自分も 大切に思ってください。

目の前におられるご家族や他の方々も 大切に。

動物達も 大切に。

心で通じることほど スゴいことは ありません。

そう 思います。

補足:12/25記
回想の更新は、続けていきますので、ご安心ください。

アガサ

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