心は正直〜批判非難・励まし〜

複数の方々から、頂くメール内要に共通のものが
ありましたので、ここに書かせて頂きます。

表示内容は、私のお返事の抜粋を含めています。

人の数だけ、考えと感性と生まれ育った環境がありますので、
様々なご意見、お考えがあって当然だと思います。

しばし、おつきあいください。



インターネットというのは、数多くの方々の思いを想像したうえで、
書くのが大切であり、ルールと思います。
それが、良識というのもの。

人の目に触れる _
書く方は、この事の重大さと影響を考えねばならない、
個人的にこのように思っています。

誹謗中傷、批判非難は、どちらも一方的です。
面と向かっては言いづらいけど、面と向かわなくて済むから
感情の赴くまま、散弾銃の如く、攻撃書きです。

誹謗中傷は、する方もされる方も気の毒以外ありません。
イジメも犯罪、誹謗中傷も犯罪です。
犯罪だということを私達が認識しておかねばなりません。

批判非難の感情は、”認めづらさ”が根底にありますが
悪事に対しての声もありますので、場合に寄るところが
大きいです。

一般的に差す”非難批判”と限定して書かせて頂きます。

非難批判するには理由があるのです。
良いものとされている励ましにも、感情と環境が影響してくるのです。

他を認めない、
認めたくない、
非難批判してしまう、
自分よがりな励まし方、、、

こうした感情は、今に始まったものでもなく、
インターネットで便利になったせいでもありません。

感情というのは、
育った環境から良くも悪くも多くの影響を受けます。
それは、根深く、根強いものだと思えます。

例えば・・・
子ども心に、
自分をわかってもらえなかった、
家族は常に非難批判する癖がある、
自分の存在を認めてもらえなかった、
ちょっとの失敗でさえ、強烈に怒られた・・・
あるいは、逆に
ずっと褒められて、褒めちぎられて育った、
(心を伴わない褒め言葉↑)
こうした様々なことが長い年月をかけて、
言われ続けた側は内に鬱積されてしまいます。

成長していくなかで、発散する機会がないと後年、
本人がしんどいなと思えます。

我慢してしまう、気持ちを言えないを繰返しますと、
自分さえ我慢すればいいという犠牲感が内に
ドカッと居座ってしまうのです。

自分の情熱をつぎこめ、気分転換にもなるスポーツや芸術、
あるいは、
包み込んでくれる器の広い人との出会いがあれば
鬱積した感情を内から外へと発散したり、
和ませやすくなります。

批判非難という強い感情は、自分を認めてほしい、
という感情の裏返しです。
その感情が入道雲のように発達してしまうと強烈。

自分でも抑えようのないほどの怒りが出てきて、
自分の言うこと考えることが正しい!という我の強さに
収まらず、独断偏見というところまで一気に突き進みます。

鬱積したものは、やがて、内に留めておくことが出来ず、
ひとたび、他を批判非難しはじめるとものすごく強いエネルギーを
放ちます。
八つ当たりも、この一種。
鬱積していただけに、発し方は相当キツく、量も多いです。
鬱積していた側は、それでバランスを取ろうとしているのですが、
当たられた方は たまったもんじゃない。(苦笑)

何等かの圧を受けて育った人の本心は、”認めてほしい”のです。
子どもの頃に認めてもらえたと思えることがあれば、
心はバランスを保ちやすくなるのですが、そう思えないまま
大人になると常に自分への愛情を求めてしまうのです。
(それはそれで仕方なかろうと思えます。)

自己表現が強過ぎてしまうのは、そういうことの裏返しなのです。
学歴、賞歴、勤め先、友達の人数、繋がりの人数・・・等を
他に向けて表現したくなるのは、そういうこと。

「どう?! これが私! スゴいでしょ!スゴいって思って!」
という感情のあらわれ。
認めてほしいのです。
自分では、もの足りないから。
自分ではなく、他から褒めてほしい。
実感できるまで、納得できるまで、認めてほしい。
褒めてほしい。
おそらく、その量は、子ども時分に感じた不足分も
求めるので、常に多くあります。

自分が自分に満足していたら、
自分が自分を認めてやっていたら、
他に向けての過度な態度は必要ないのです。

多くの目に触れる場において、
わざわざ、嫌な思いをさせることなど 全くないのです。

根深い不満癖は、不満を見つけるのが上手。(苦笑)
不満癖の特徴は、自分に興味がなく、
なぜか、他ばかりに興味が行きます。

非難批判する時というのは、
他からの愛情、優しい扱い、褒め、認めを待っている時。

そして、
自分が自分を大事に思えていない時、でもあります。

他の行動を非難することで、自分が求めているものや
自分が心から欲している大切なものを得れないことを
心で本当は知っておられるのです。

励ますということ。
励ましは、人間関係の深さやつきあいの長さにも
多いに関係します。
尊重し続けている月日があり、
気持ちの波長が合って来て、
相手の思いやりを”常日頃”感じている・・・
そこに、人間関係の”歴史”があるのです。

相手を大事に思えているからこそ、
“親しき仲にも礼儀あり” が自ずと
言葉と行動に滲み出るのです。

信頼関係が築かれた相手から言われるのと、
そうした関係を築けていない相手から言われるとでは、
全く違ってくると思います。

インターネット上であれ、
心から他を励ましたいと思っていれば
挑発的な表現や批判非難は入りません。

それらが入るようであれば、心からの励ましではなく、
我欲寄りの一方的なものとして伝わってしまいます。

インターネットは、人や命のために役立たせる手段です。
道具や便利なもので、人の心や命に害を与えるようであれば
使い方が間違っているということ。

間違った使い方をしているのであれば、正せばいい。
間違った使い方をしたのなら、まず削除するのではなく、
まずは、心から詫びること。
そして、心から行動を正すこと。
心が伴った言葉や文章、行動であれば、必ず伝わるのです。

本当の思いやり、愛がその文面や言葉に含まれているのなら、
思いやりや励ましを含めたいと思っているのなら、
心に傷がある人や悲しい思いをしている人の心にグサッと
ささることは無い。

心を重んじているならば、発言、声、文章、行動、一挙一動から、
思いやり(愛)は滲み出るものです。

心は正直だから。
当然自然のことながら、我欲も滲み出る ということ。(苦笑)
ということで、
どちら様に向けても丁寧に接するのが良いと思います。

“心は正直”ですから、どう繕っても伝わってしまいます。(笑)
長年交流させて頂いていますので、そう思えます。



大事な家族が他界される、大切な人が他界される_
深い悲しみの場は、多くの方々が参加されている場ですから、
いつも以上の、丁寧さと謙虚さは常に大事だと思います。

礼儀をわきまえること、
自分の書いた内容が、些細であってもどなたかの心に
傷をつける可能性があるかどうか、
この2点を踏まえたうえで、発言や表示をするのは大切。
自由、責任を自覚しているということです。

そんな自覚が無いなぁ・・・
責任をとりたくないなぁ・・・
ということであれば、
まずは、ご自分を大事になさることを優先。
自分を大切に、認めてあげてください。

自分を自分で心から認めてあげていれば、我欲に満ちた
他への批判非難など 発露さえしません。

100%ではないけど、自分は恵まれているよなぁ〜・・・
と思えます。

住むとこ、あるなぁ・・・
着替える服、あるよなぁ・・・
食べるもの、あるなぁ・・・
インターネットも繋げてるよなぁ・・・!
という具合に。(笑)





= 日常のヒトコマ =
実験中のアボガドさんです。
う・・・ん、どうでしょうか・・・、これ。
なんか、白い点々のようなものがありますよね。なんだろ。
「これ、カビ・・・かなぁ?」
家族それぞれが覗き込んで、同じ類いのことを言います。
勇気ある人差し指でツンとすると、ネバっとしました。
「アボガドの・・・油・・・かなぁ・・・」
「せやで!油・・・やで。知らんけど。笑」
知らんけどって言うのは、関西出身の私の口癖。(笑)
6/2追記:K様、アボガド育ての伝授、有難うございました!早速やってみます!(嬉)

4件のコメント

  • アガサさん

    いつもアガサさんの交流やブログに助けられています。
    本当にありがとうございます。
    いつも迷惑をお掛けしているなと思いつつも、今はどうしても甘えてしまってます(ごめんなさい。)

    孤独で辛いときは余計に、不特定多数の目にするHPやブログの身勝手な発言内容に傷つくのかもしれませんね。

    メールにも書きましたように、アガサさんの質素でお優しい人格を目指して私も頑張ります!

    アガサさんのご活躍を、いつも応援しております。

    • Y様
      交流にしても、ブログ内容にしても、依頼人さん、読み手の方が心広げられますので、そうお感じになるのです。ご自分でご自分を助けておられる、ということです。謙遜ではなく、アガサというのは人を助けることなど出来ないと思っています。
      誰しも、孤独を経験します。悲しみや辛さも当然ながら経験します。実際、辛く悲しくしんどいですが、それらを本当に経験していなければ、人の気持ちなどわかりません。
      大事な家族、大切な人の他界を経験しながらも、そうした悲しみを持つ方々に対して、励ましているつもりが、あまりにも我欲が出てしまい、批判非難に成ってしまうことも多いと思います。
      自分よがりな推移での経験では、人の痛みはわかりません。 丁寧に大切に経験すれば、人の痛みがよくわかります。
      そして、それは言動・行動、一挙一動だけでなく、その人を包む空気から滲み出る深い優しさ穏やかといったものに成ると思えます。
      それと。
      特別な能力と思われるものは(見えないもの)、諸刃の剣です。一方で非常に役に立つかもしれませんが、他方では大きな害を与える危険なものです。それをわきまえている人達は非常に少ないと思います。能力というものは、ひけらかすものでも、他との差別化をされるものではありません。目立つことなく、影となり、日陰となり、人知れず誰かの手助けの手助けになれれば、授かった意味や意義があると思います。決して、自分はスゴいんだと誇示する必要など少しもないと思い続けています。
      Yさんのご活躍を私もいつも応援しています!
      アガサ

      • 交流していただいたときには気付かなかったこと。
        録音を聞き直し、思い出を思い出し、それらを照らし合わせ…
        まさに亡き人のことだったと気付いたことがまた一つ増えました。

        とても些細なことですので、私だけしか絶対に分かっていないことです。

        あまりにも些細なことですから、逆に真実味があり、今幸せを感じているところです。

        アガサさん、本当にありがとうございます。

      • Y様
        お知らせくださり、有難うございます。
        交流の時に、お分かりになることもあれば、その時には何の事か分からず、後日分かる・気づく_ 後者を経験した人にしかわからない、何とも言えない嬉しさと懐かしさと、(言葉が見つかりませんが)何とも例え難い感動とでもいいますか、愛情を受けて暮らしてきたことを全身でしみじみと感じるのです。冷たい涙ではなく、温かい涙が静かに流れるように経験しています。非常に些細なこと、です。思い出せないほどの些細なこと。日常というのは、そういう些細なことの積み重ねだと思います。些細なこと、平凡なこと、それらを積み重ねられるのが本当の幸せだと思うのです。
        Yさんがおっしゃる通り、些細なことだからこそ、真実味が感じられ、ひしひしと心に愛情を感じられるのだと経験しています。他界された方々の胸には過去のことではなく、今もなお、燦然と輝く愛情の証なんだと何度もお話し頂き、その度に、涙が勝手に流れるのです。交流は派手さではありません。暮らしは派手さではありません。些細なことの繰返し、愛情の積み重ねというのは、非常に地道で地味なものです。そこに私は心から惹かれているのです。アガサ

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