言葉の壁は、ない。
10/17
10/19
50年、か・・・。
まるで、浦島太郎が竜宮からもらった箱を開けて、煙がもくもくして、一瞬に老人になってしまった・・・あの感覚に少し似ています。(笑)
あっという間に、こんなに長い月日が流れていたことが不思議。
他界との交流に、言葉の壁は ないようです。
それは、実際に私が経験させてもらいました。
アガサというのが自分の内から表に沸々と出始めたのが、10年少し前。
当時住んでいた土地柄というのもあってか、外国籍の方々と会う機会が多かったようです。
強烈だったのは、やっぱり、横須賀ベース。
突然の依頼で、
頼みの綱(日本語が分かる人)は無し。
数名だけかと思い、素敵なお家に入れば・・・大人数。
ホームパーティでもあるんですか?と思うほど。
勤務中らしき軍服を身に着けた恰幅の良い男性も混じり、好奇心旺盛の大きな空気の中に、最初たじろいだ経験は、あれはあれで良かったんだと思います。
それを機に、言語の壁だけでなく、私の内にこべりついていた何かが削り取られたように思いました。
困った!
そうした場を何とかしないといけない・・・
しかも、自分独りで!
(勘弁してくれ・・・)
この経験は決して有難いとはその時は思えないですが、何度もそうした「困った!しかも自分独り」を経験する度に落ち込みはすれど、気持ちの切替に少し速さが出てくるように思います。
自分が何とかしないと、何も変わらない。
自分の感情を持て余す日々。 重く、深く、一秒一秒にのしかかるように思います。
(なんて、自分は面倒くさい人間なんだ?!)と何度思ったことか。(笑)
まぁ〜いろいろな自分を経て
開き直りがやってきてくれたら、少し楽。(笑)
物事の核(真・芯)を捉える見つめられるようになってきた証。
そうした経験は出来る限り、したくないと思うのが人情。
苦く辛い経験でしか、自分がわかって来ないのも事実。
自分をわかってやると、今まで気にも留めなかったことにも感謝が芽生え、固執や執着具合も緩やかにになり、物事を冷静に気楽に思えることが増えてきます。
自分が動く他、ないのですから。(笑)
それは、このうつつの世だけでなく、他界もそのようです。
心地良いベルトコンベアーに乗れて、
周囲から、過保護レベルの「お・も・て・な・し」を差し伸べられる!_
というわけではないのです。
固執、執着は 誰にでもあります。
ただ、多過ぎると 自分が大変なだけ。
自分次第。
気持ち次第。
考え方次第。
他界も、うつつの世も 同じなのです。
言語は、この世では大きな「壁」となることがあります。
でも、その「壁」に偏見を持つ必要は なく、
何カ国語も話せるから操れるからといって、
自慢することでは ないのです。
話せても、心がこもっていなかったら?
私利私欲が常だったら?
自己陶酔するためのものだったら?
(笑)
この世にも言葉の壁は、ないこともあります。
その実例をひとつします。
観光都市、京都市。
世界中の人達や教科書にも必ず出てくる名所。
その界隈で生まれ育った私は、
子どもの時からこんな場面を見ていました_
小さな商店を祖父母が営んでいましたので、
道を尋ねられることは、日常的でした。
全く 英語を話せない祖母が、
海外から来られた観光客の人達に
身振り手振りで説明している姿。(笑)
祖母は、京都弁。
店の前の通りに出て 大説明会。(笑)
でも、決して、手を顔の前で振り、「私は英語を話せない」と拒否しない。
「おばあちゃん、英語 喋れへんのやろう?」
「そうや。わからしまへんで。」
「嫌やなって 思わへんの?」
「せやけど、困ってはるし。」
「困ってはるなぁ〜」
「せやろ。困ってはるねん。」
日本の小さなおばあさんに日本語で身振り手振りの説明をされた外国の方々は、欲しい情報をわかりやすくもらえなかったと思います。
だけど、
なぜか、嬉しそうでした。
聞き終わった外国の方々は、深いお辞儀をされて嬉しそうでした。
その一連の姿を小学生の私には、不思議で、でも、感動的に映りました。
これが小学生の頃の、祖母の思い出のひとつです。
” 困ってる人が そこに居る。”
ただ、それだけ。
当たり前のことをしてるだけ。
自分は英語が話せないからといって
「ここは、日本だ。
日本語を話すのが当たり前だろう。」
とは思わない。
そう思う心がカチカチ。
心がカチカチ状態に居るのは、面倒くさい。(大笑)
交流において、私の、アガサの根底に流れているのは
祖母の背中を見て、得たもの。
悲しんでいる家族、大事な人に
自分の思いを話したい。
感謝の気持ち、
愛を伝えたい。
何らかの壁がある_
どこかの 有名な霊能者や霊媒や学者や研究者が
本に書いたり、講演されていても、それはその人達の説です。
北米、南米、欧州、豪州・・・
自分は、授かったご縁から経験したことを大事にしてるだけ。
ものすごいお友達でもない人達の言うことよりも、実際に交流をした他界の人達の心の方が信じられるのは極自然なことです。
どこに住んでいても、
何語を話されていようとも、
私達が、大切な人、愛しい家族を思う気持ちに変わりない。
ひとりひとり、歩む日々(人生)は 違います。
私達の、この世での悩みも問題も 違う。
どんなに、何かが違っても
目にみえないもの(心や精神)を含め、
他界との物理的な壁など、ないのです。
あるとするならば・・・
それは、私達の内にこべりついている_
偏見(通念)だと思うのです。
=今日のイチマイ=
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