湿っぽいのは嫌い

交流当日の朝、洗濯物用事をしていましたら

遠くで 救急車のサイレンの音が聞こえてきました。

その音に安堵する自分が居て、

すぅーっと眠りについていく自分も居ました。

サイレンの音は この山の中のものではありません。

普段の私なら、サイレンの音を聞きますと反射的に祈ります。

他の方々と同じように。

交流お約束日の朝に 聞いたそのサイレンの音は何といいますか、

とても安心できる音でした。

< これで安心。あれは自分のところに来てくれる救急車だ >

自然に、そう思えました。

その音には、

救急隊員の方々の責任感と人を助けたい気持ちが感じられました。

目に見えない思いやりや使命感が 物理的なものを越えて

安心と安らぎを与えてくれたのです。

周囲の人達にとってはドキッとするサイレンの音ですが、

その音を耳にすることが出来、安心を得て、静かに、

すぅーと寝入る感覚に成ったのです。

気づくと 立ったまま、目を閉じている私がいました。

( 何してたっけ?・・・あぁ、そうだ。洗濯の途中だ。)

そう思い出して、いつも自分に戻りました。

Yさんは、交流を数年待たれたようです。

そのYさんから頂いた ” 心のメール ” の一部をご紹介致します。

– – – – –

(略)

主人は3年前に急性大動脈解離で倒れ、そのまま亡くなった為、後悔ばかりでした。
共働きの為主人の健康管理も十分できなかったのが、原因だったのでは。
私が仕事を辞めていれば良かったのでは。
だから、交流の場に来てくれないかもしれないとの思いがあり、
お願いするまで3年かかりました。

「ああすれば、こうすれば、もっと生きれたのかも、と後悔した時期もあったけど、
今はもう後悔していないから。湿っぽいのは嫌いだから。」とアガサさんから伝えられた
主人の気持ち。
お互いに3年という時間が必要だったのだろう、と思います。

亡くなった時にせめて痛くなければ、と思っていたのですが、
「救急車の音が聞こえただけで、体が痛いとはなかった」と聞いて、少しホッとしました。

「自分の遺したものは処分していいから。2〜3年使用しなかったものは必要ないから。」
と伝えられた主人の言葉。
これから引っ越しする予定で、主人の持ち物を並べて、途方に暮れている私を見て
「このままでは引っ越しできないぞ」と背中を押してくれたのだろうと思います。
ただ、私が心強くなれる物は手元に置こう、と思います。

「そんなに頻繁にお供えしなくても良いから、多めにしてほしい」と
食いしん坊の主人の要望を伝えられた時には大笑いしてしまいました。
というのも、今年に入って「もう4年目になったし、そちらでもダイエットしてね。
もう特別な日しかお供えしないよ。」と主人の写真に向かって言ったのを聞いて、
慌てたんだろう、と。
本当に変わっていないなあ、とほっこりしました。
これからは、去年と変わらず、お供えをするつもりです。

「姿は見えないけれど、今もいるから。今も愛しているから。いつか会えるから。」
と伝えられた主人の気持ち。
突然亡くなった為、心の準備もなく、現実に対処すべき事が次々と起こり、
独りで生きていけるのだろうか、と悩んだり。
周りの人達が皆幸せに思えて、落ち込んだり。
そんな中、主人も陰ながら手助けしてくれたのだろうけど、
いろいろな人に手助けしてもらえて、今日まで無事に生きてこれたなあと思います。
(略)
主人の死によって「人との出会いをもっと大切にしなくては」と思えるようになりました。
それと、
いつか私の人生も終わるのだから人に迷惑をかけない程度に好きなことをしよう、とも。
こうならないとわからなかったのは、本当にもったいないですけど。

(略)

– – – – –

交流を終えた時、いつも思います。

人生は続くんだな・・・ということを。

辛く重い身体から脱した楽さは得れるにせよ、自分の感情と

向きあうことは、どちらに所属先を置こうとも変わらない。

むしろ、

重い肉体を維持するための時間(生活するための仕事)が

ぽんっと宙に浮くため、自分の感情と向き合うことが増える

のだろうなぁ・・・

そんなふうに思えています。

Yさんのご主人がおっしゃった、

<ああすれば、こうすれば、もっと生きれたのかも、

 と後悔した時期もあったけど、今はもう後悔していないから。

 湿っぽいのは嫌いだから。>

というお気持ち。

私達は 毎日 生きることが精一杯で、

生活を営むために働くことで精一杯で、

“ちょっと余裕が出来れば、どこかに行こうか、

何か美味しいものを食べに行こう!” という励ましを胸に

仕事、仕事、仕事、の日々を送るのです。

味気ないように思われるかもしれませんが、

家族のために 好きでもない仕事をする、

生活のために やりたい方向ではない仕事をすることは

それはそれは 尊いことだと 私は思うのです。

仕事というのは、誰かのために 尽くすということだと

思うのです。

自分のためにだけの、仕事は限界があり、飽きてきますもの。(笑)

家族のために、

お客様のために、

顔を合わすことのない誰かのために、

腹立つこともあったり、文句を言いたくなる日もありますが(笑)

やっぱり 誰かのために 働いているのです。

働くということは、本当に尊い。

良いことづくめではないからこそ、尊く成るのです。

重い肉体を持っている私達の3年間、年月の経つ感覚と

他界での感覚とは、少し違うように思えます。

これは、交流を通しての、私の感想です。

正しいのか、真実かは 分かりませんけど、そう思えます。

大切な人の他界を経験してからでないと、

心底 わからないことの方が多いかもしれない。

それでは遅いじゃない!

と思う人がおられるとすれば、私はそうは思いません。

身を切られるような悲しみや苦しみ、辛さを経験して

物事の本質や大切なことに気づくことだって多いと思います。

後悔や反省しても、あの人は、あの子は帰って来ない・・・

そう思われる方の方が多いでしょう。

ああすればよかった、こうすれば良かった、

そうしていれば、今は違っていたかもしれない・・・

・・・こう言うのは簡単ですよ。

辛い経験をしなかったら、きっと、そうは思えなかったと

思いますよ。

他人様の悲しみは、所詮、他人事。

よくある本音です。

そうじゃない。違うんです。

断腸の思いは、相当なもんです。

言葉で軽く言える言葉ではありません。

痛みは辛さというのは、言葉では言えない時期があるんです。

辛い、というのも言えない。

Yさんのご主人や、今まで交流に参加してくださった方々も

きっとおっしゃっていたと思いますが、

そうした思いを乗り越えて来られての、今なんです。

残された私達だけが 悲しいわけじゃない。

残された私達だけが 辛いわけじゃない。

忘れ去るわけじゃないし、

置き去りにされたわけじゃない。

< 湿っぽいのは嫌い >

仲介する私は、そのままの言葉でYさんに伝えました。

ご主人も きっと 湿っぽくなられていたんだと思いますよ。

ある時期は。

そうじゃないな、そうじゃいけないな・・・

そうした時期を過ぎての 今なんです。

他界は 不自然な場所ではありません。

詳細に渡り、何でも分かって、何でも知ることが出来る、

全知全能に成れるかのように思うことの方が不自然だと思います。

大切なこと_

思いやりや愛情を見つめ、温める場所だと 多くの交流に

参加させて頂いて そう思うのです。

交流は、人生そのものだと心底思えるからこそ、

続けるのかなと思います。

交流は、特別ではありません。

非現実な絵空話や架空物語でもありません。

特別ではない平凡な日常の積み重ねだからこそ、

自分は続けて、続けられるのだと思います。

普通が一番しあわせなんだもの。

= おまけ =
すみません!
おまけ写真がありません!

花粉の純度が高い山の中ですので、皮膚炎を優先して、
今のこの時期は、ほとんど山歩きをしていません。

もうちょっとの我慢我慢!(笑)

アガサ

+2

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