身をまかせる 〜必要を自然に〜

世の中、いろいろ変化してきましたね。
コロナ蔓延前までは、当たり前だったことが
今は当たり前には思えなくなってきたことも多々あります。
いろいろ考えて、これからの時代に人に合うように
と願うばかりです。

交流について、交流の後について、よく考えます。
新型コロナを警戒して、対面を自粛したのが2月22日。
あっという間に、3ヶ月経っていました。

その間ずっと、じぃーっと 考えていました。
熟成するまで 考えに考えて。
時折ふいにやってくる”空気玉”も無視することなく。(笑)

今週あたりぐらいから、ようやく、頭の中で整理し始めました。
ちょっとお時間を拝借して、お話しさせてください。
流れを辿って、お話ししたいのです。
長文で大変失礼します。



交流をするのは、何故か?
依頼頂いた方の日常に役立っているのか?
この2つは、私の、自分への自問常連内容です。

大事な家族、大事な人を案じるのと同時に
” 死後、どうなるのか? “
ということだと思います。

死後のことは、いろいろな説があります。
自分としては、自分の経験、半世紀に及ぶ体験を
過信せず、ツッコミをいれ、確認するだけです。
有名著名な、どなたかの説は、その方々の説。
他人様の説は尊重しますが、盲信はしません。

ご連絡やご依頼をくださる方々は、
ズドンとした重みのある強烈な悲しみにのみこまれながらも
インターネットを検索されたり、ご友人お知り合いの方経由で
交流というものを知る、いろいろ考えて、迷いながらも
連絡を取ってみる・・・このような経緯だと思います。

交流を重ねて、悲しみがあっても何年か かかって、
心に穏やかさを少しずつ感じられていきますが、
皆が皆、そうではありません。
穏やかさや落ち着きを感じ難い方々も 多くおられます。

顔や体型、家庭環境などが、同じでないように、
心や感情もみんな同じ、ではありません。
ひとりひとり 違う、ということです。
世間的に認識されていることですが、
心底、理解されているかといえば そうではないでしょう。

外見など肉眼で見えるレベルは、分かりやすい。
見えないもの(心・感情)は、どうか?
分かりづらいと思います。
心や感情は肉体で覆われていますから、大抵は
表面的なレベルで、ほぼ独断します。(苦笑)
内面、胸の内、心、気持ちは、分かりづらいもの。
分かりづらいものは、丁寧に扱わないとなりません。

瞳の奥を察しようとするのか、しないのか。
その人の周囲の空気感を察するのか、しないのか。

悲しみが根深い場合、本人が一番苦しいと思います。
他人様に言われなくとも、
本人が一番よく分かっているのです。
深過ぎるショックによって、自分の感情のコントロールが
操縦できない状態です。

“どうしたら、いいのか?”

専門医(心療内科)のところに行けばいいのか?
それで、治るのか?・・・
処方された薬を飲めばいいのか?
本当に、治る?・・・
薬を飲み続けないといけなくなるのでは?・・・

薬は、きっと強いだろう・・・
副作用も当然ながら、あるだろう・・・
(薬が悪い・効かないの意ではありません。)

肉体と心は、種類が違います。
ですから、肉体の治療と同じやり方は通用しない。
心と身体を切り離して考えることは、不自然なのです。

交流時に聞かされる事に安堵しても、
悲しみが深過ぎる方々にとって、
その安らぎは、一時的なものになってしまいます。

心臓もドキドキし、全身が微動するほどの感動感激は、一時。
それは、まるで、夏の夜空に舞い上がる花火のようです。
ご存知のように、花火はやがて、その輝きが煙のごとく
夜空と空気に溶け込んでしまいます。

いろいろ思い馳せていた頃、
交流と花火は似ているなぁ・・・ と思いました。
伝えられたことが全身と周囲の空気に溶け込み、
しばらくすると、薄まっていくような・・・あの感覚。
決して、
交流が無駄・無意味ということではありません。

” 一目でも良いから、会いたい “
これだと思うのです。

悲しみや辛さは日常に深い影を落とします。
だからといって、
深い悲しみを持つ人は、ずっと苦しいまま?
我慢し続けるだけ?

そんなこと、ないでしょう。
そのままであり続けるわけが、ない。

世間一般的に勘違いされていることがあります。
それは、悲しい・悲しむ・辛い・苦しいということについて。

“いつまでも悲しいのは、弱いから” とか、
“いつまでも悲しめるのは、恵まれているから” とか、
このような考え方。
悲しいことが悪いかのような、忌み嫌う考え方をなさる。
それは違うと私は思います。

“悲しみが深過ぎる人は、弱者ではない。”
“繊細は、弱点ではない。”
“静は弱ではない。”
ということです。
このことを心底、覚えていてほしいのです。

愛する大事な家族、愛する人の他界を経験し、
悲しみが深過ぎる人にとって、
何か少しでも穏やかな安心を感じれるような何か、
その”何か”の手助けの手助けになるような何かが、
本当に大事なんではないの?

交流を積み重ねていくだけが、善いこと?
すべきこと?
いや、違うな・・・
“霊媒でござる”と交流のみに留まってるのは、オカシイ。
なんか、オカシイ。
オカシイと思ったら、考えんとイカン。
こう思えてきたのです。

必要なことはなんだろう・・・
悲しみのケア?
違うなぁ・・・

自分の経験から思うのは、
心の痛みや傷を他人がケアする、出来る、は違うということ。
辛苦が和らぐのは、
いわゆる”ヒーリング”と銘打ったものではない、のは確か。(笑)

普通が善い。
平凡な日常が良い。
日常における、些細な積み重ね。

必要なのは、
本音を吐露でき、
弱音を吐けて、
自分独りではないと思えて、
境遇が似てても、全く同じではないのだと
頭だけでなく 心から自分を認められること、
だろうと思います。

少しでも、悲しさや辛さを共有すれば・・・と思えて、
何かに参加することにより、プライベートな質問を浴び、
答えたくないのに答えるのが当然のような空気に
嫌な思いをされた方々も多いでしょう。

最も気をつける必要があるのは、
どういう基準で参加を承認するか、ということ。

全くの自由参加では、
“優しさを装った下心満載な輩”も参加できるのです。
営業、犯罪といったことを目論んでいる輩もウヨウヨですから。

どういうことであれ、最悪の事態を想像して、先手を打つ。
常に安全を確認し、安心に備えなければならないのです。
(↑これ重要! 現実、そうした輩の参加があると聞いています。)

こんな話も聞きました↓
悲願ケアのカウンセリングなのか、ヒーリングなのか、
何だか分かりませんけれど、
メール1通お返事代金いくら、とか。
なんやそれ、と思いましたが、まぁ・・・何といいますか、
閉口してしまいますね、こういうのは。

誰に気兼ねをするわけでもなく、
お友達を作りに行くような場でもなく、
誰か特定の人がメインである場では絶対なく、
温かい空気が普通に在って、
自然に落ち着く場。
こういうのを共に作っていきたいと思います。
※コロナ対策をして。

具体案は、考え中ですが、
ぼちぼちでも会えれば・・・と思います。
会うのは大事。

言葉は出て来なくても、
話せなくても、
言葉に詰まっても、
良いのです。
分かる人には、分かります。
本当に。
分かる人には、分かる。
そして、伝わる。

そんな悶々と考えていたある日、
ふと思い出した言葉があります。

” 真実とは、身をまかせて・・・ ”

この言葉。
私への伝言です。

私の独身時代からの愛犬が突然他界したのは、
もう10年以上前でしょうか。
他界後、ある日、幼かったうちの子の夢に、
その愛犬が出てきて、子に私への言伝を託したのです。

「『真実とは、身をまかせて』って、おかあちゃんに言ってねって」
びっくりしました。
4才の子の言うことではないだろう・・・
(まぁ、いいか。伝言だから)

嬉しかった。
自分の不甲斐なさを責め続けていた毎日でも、
愛犬は、ただただ 愛情いっぱいだったのです。

子と他界した愛犬に、「ありがとうね」と心から言え、
ようやく、自分を許せたのです。

何を持って、真実か本当か本物かは、当人の判断。
どんなに有名な霊能者や霊媒が伝えられたとしても、
当人がどう思えるか、思うか、です。
相手がどうこうではないと思います。

心から伝えたいことが、
心ある人を経由して伝えられるからこそ
伝えられた者の心に響くでしょう。



ブログは続けます。
安心してください。

交流を引き受けないということではなくて、
他界から連絡があれば、例え、一言でもお伝えします。
これも、安心してください。

ただ、今までのような引受け方はしないと思います。
ご依頼メールやフォームを拝見した時の
他界の出方(様子)を優先させて頂きます。
※今月中にホームページに記載します。



このブログを読んでくださっている方々、
他界の方々、そして、私の家族達のことも含めて、
考えに考えました。

この流れが自然に思えます。
身を任せるというのは、自分の心が自然に思えること
なんだなぁ〜 と思いました。

まとまりのない文章で、読みづらかったですね。スミマセン。
ご勘弁頂きたいと思いながら、心に伝わればいいなぁ〜と
思います。


加筆: 5/26(助詞の修正)、5/25(長文すぎた為)



= 日常のヒトコマ =
大奮発して買ったアボガド。
その種を家族達がこんなふうに観察中。笑
ペットボトルの上下を利用しております。
さあ、どうなるでしょう〜ねぇ〜。大笑
+33

14件のコメント

  • アガサさん
    初めてご連絡させていただきます。以前からアガサさんのブログにお邪魔させて頂いてます。いつか時期が来たら是非アガサさんに交流をお願いしたいなと思っていました。今も思ってます。
    ずっと思いながら過ごしていてもまだお願いもコメントすること事もなく今に至ってます。
    アガサさんの今回のブログを拝読して最初の一歩 コメントをさせていただきました。
    やっぱりいつかアガサさんに交流をお願いしたいと思ってしまいました。
    アガサさんの言葉で息子のことを聞きたいのです。
    すみません。

    アガサさん 色々と大変な毎日ですが少しずつでも良くなると良いですね。
    アガサさんのブログで私は心にオブラートがかかるのです。
    不思議ですね。

    では
    支離滅裂な文章ですみません。

    junjun

    • junjun様
      勇気をふりしぼってのコメントを有難うございます。
      いつか、お伝えさせてください。
      その「いつか」は、いつでもご連絡ください。

      大丈夫ですよ、大事なご家族はお元気です。
      今までと同じように、今まで以上にご家族を大事になさること。
      ご自分を責めても、責め過ぎてはいけませんよ。責め過ぎは誰のためにもなりませんから。私自身の経験により、そう思います。(苦笑)

      私でよかったら、いつでも連絡ください。
      アガサ

  • 何度か交流をさせてもらったものです。
    今回の内容、ジーンときました。

    交流後は、とても幸せでルンルン気分になりますが、
    それが持つのも2日ほど。
    また、彼がいないという現実に落とされ、絶望と孤独の毎日。
    これがいつまで続くのかと思うと怖くなる。

    一目でいいから会いたい 話したい
    病気で亡くなりましたが、思いもよらない亡くなり方だったので
    彼はあくまでも治ったと思っていたのに、移植の感染症で脳がウイルスに侵され
    認知障害が出て、自分が自分であることもわからなくなり、植物状態になって逝ってしまいました。
    一体、何が最後の会話だったのか。彼は死ぬとわかっていたなら私に何を言いたかったのか
    私も「ずっと愛してる。ありがとう。」と言いたかった。

    アガサさんは交流のことは覚えてないと言っておりましたが報告しておきます。
    交流後すぐではなかったですが、ちゃんと夢の中でプロポーズしてくれました。
    ちゃんと片膝ついて…

    もうそろそろまた彼と話したくなりました。
    近々またお願いいたします。

    アガサさんは、大切な人を亡くした方たちの心の命を助けるお医者様みたいです。
    今までたくさん流された涙を優しい手ですくってくれた方です。
    彼が私にアガサさんへ繋がる道を作ってくれたのだと思います。
    いつもいつもありがとうございます。

    3年半経っても立ち直れない私。前向けない私。笑顔にはまだなれない私。
    それではダメなのかなあ、周りの人もそう言うし。
    そう考えるとそういう自分が情けなくなるんです。でも、ある日、それでいいじゃないか、自分の感情に素直にまかせたらいいんじゃないかと。だってそれが自分だし。悲しいなら悲しいでいいですよね。
    出来ないのに無理に笑顔を作って、前向くぞ~って、それは偽りの自分ですから。
    後ろ向いたっていいよって、自分だけでも自分に優しくしないと。
    彼は過去ではない、私にとっていつまでも「今」ですから。
    落ち込んだ時に、何度かアガサさんにメールしようかなあと思ったりするのですが、
    交流とかで忙しいかもとか疲れてるかもとか、皮膚病がしんどいかもとかと思うと、なかなかできずにいました。
    今回は、こっちに書かせてもらいました。このコメントに反応してくれる人もいてくれたらなあとも思いましたので。
    まとまりのないコメントですいませんm(__)m

    みちる

    • みちる様
      こちらにコメントくださって有難うございます。お気遣いさせてしまい、すみません。

      彼からプロポーズされましたか!!!
      本当だったのですね。やっぱり、嘘はつかない。他界を疑ってはいませんが、盲信もしていない私ですが、このようなご報告を知ることで私の中でも信頼度が増します。お知らせくださり、有難うございました。

      みちるさん、たくましくなられました。
      そうですよ、悲しいは悲しいで善いです。心配なのは、悲しいのに、悲しさを感じない状態です。感情が麻痺することの方が心配です。

      偽って、強がって生きることもせんとあかん時期もあります。けれども、いつか、必ず、そうではないんだなぁ〜と思える時がやってきます。強いだけが人ではないし、前向きだけが人でもありませんから。
      いろんな感情、いろんなことを経験して、今の自分という人間が形成されてます。ツライ悲しい経験ほど、役立ちます。
      楽しい、ラッキー、嬉しい、快楽といったものだけの毎日では、人間が駄目になります。

      後ろ向くから、何歩も後退するから、途中で立ち止まるから、いろんなことが分かってくると思いますよ。
      コロナ自粛がそれですもん。
      私達は、皆で協力する、我が身を守ることは、他の身も守る、ということを実感出来たんです。世界中で、です。
      自分勝手な無茶苦茶な人もおられますが、ほとんどの方々は、理性で冷静に自粛なさっていました。

      みちるさんの仰るとおり、彼は過去ではないです。いつまでも”今”です。大事な人に、過去扱いは無いです。ご本人、ムッとされますよ、そんなん。(苦笑)

      いつでも、メールください。今まで通り、メールください。私の皮膚炎もおかげさまで落ち着いてきてます。
      アガサ

      • 良く忘れるアガサさんがプロポーズの件、覚えててくれたんですか!ていうかアガサさんが覚えてくれていることに喜びを感じるのですが(笑)
        皮膚炎が収まっていてよかったです。
        いつものアガサさんの温かいお言葉ありがとうございます。
        「アガサさんは野菊のような人だ」(←わからない人もいるでしょうね)

      • みちる様
        お返事、遅くなりました。すみませんでした。
        いえいえ。覚えてはいられません(苦笑)。みちるさんがメールに書いてくださったので、(ああ、そうなんだ。そう伝えたんだな、私)と素直に思ったということです。交流内容を覚えているときっと、日常に支障を来すと思いますので、愛すべき健忘症ということでご勘弁頂ければと思います。(笑)
        温かいとは自分ではちっとも思いません(笑)。思ったことだけ言えて、お返事させてもらってます。いつもおつきあい頂き、お世話になります。(笑) 「野菊のような人だ」、懐かしすぎます。50半ばにさしかかる私には、よーくわかります(笑)。当時、流行ましたねぇ。(大笑)
        アガサ

  • 私も初めて連絡させていただいてます。
    1ヶ月程前くらいにアガサさんのブログに会いました。昨年夫を亡くし、こんな悲しみがあることを知りました。

    亡くなった夫の今をいつも案じて、今日もなんとか1日を終えます。アガサさんの今日のブログを読んで、何か一言でもお便りしたくなった次第です。
    私も勇気をだして、送信!します!

    • akemi様
      お辛く、悲しいなか、勇気ふるってのコメントを受け取りました。有難うございます。
      亡くしてから、いかに、大きな存在なのか、どんなに自分が頼っていたか・・・痛いほど、身体と心が砕けるほど、痛感します。
      そのような中において、ご主人の今を案じられているのは、本当にスゴいことです。心が伝わります。
      現実、いろいろと大変なことが折り重なることがお有りと思いますが、akemiさんの気持ちを大事になさってください。大事にするというのは、無視しないということだと思ってます。

      いつでもコメント、メールください。私でよければです。
      アガサ

  • アガサ様

    仕事から今さっき戻り、携帯を見ました。アガサさんのお返事を見て、涙がボロボロ流れます。ありがとうございました。またメールしますね。

    • akemi様
      お返事がものすごく遅くなりました。失礼いたしました。
      心がとても繊細になっている時は、小さな小さな、些細なことさえ、心は拾います。心が感じます。ですから、涙がぽろぽろと流れるのだと思います。涙は流すので、自然ですから、流してください。そして、流れたら、ハンカチ等で拭いてください。そのままにしておきますと、塩分で肌がかゆくなりますのでね。(笑)笑ってますけど、本当のことです。経験者ですから。
      また、いつでも、思われる時にコメントなりメールなりください。有難うございます。
      アガサ

  • アガサさん、初めてコメントします。
    だいぶ前からアガサさんの事は存じ上げておりましたが、なかなかコメントする勇気がありませんでした。

    私は今月頭に夫を亡くしました。
    数年前に突然倒れ、その後はずっと療養生活をしておりました。
    私の意気地のなさが夫を苦しめてしまい、それなのに夫は痛みや苦しみや孤独の中でも頑張っていてくれました。
    療養生活の間、何もしてあげられず、むしろ苦しめるだけだった私を夫はどう思っているのだろう?怒っているのかな…もっとしてあげられた事があったのでは?と後悔ばかりしています。

    夫が亡くなってから親族との揉め事があり、きっと私と結婚した事を夫は失敗したと思っているだろうな…他の人だったら違った人生だったんだろうな…と、出来るだけ考えないようにしても、申し訳なさと後悔で胸が苦しく、穏やかに夫に想いを馳せるにはなかなか遠い状態です。
    まだ時期ではないのでしょうが、いつかアガサさんに交流をお願いしたいと思っております。

    アガサさん、まだまだ油断ならない社会情勢ですが、どうかお身体ご自愛くださいませ。
    長々と、まとまりのないコメントをしてしまい申し訳ありませんでした。

    • るる様
      コメントを有難うございます。コメントをする、というのは勇気も要りますが、タイミングなのかなぁとも思えています。今回のコメントで少し、流れが変わってくるでしょうね。そう祈ります。
      るるさん、お辛かったですね。長い間。
      もちろん、今も、お辛いとお察ししていますが、辛さや悲しさというのは、時間が経つに従って、種類といいますか、なんというのでしょう、違ってきます。差があるわけではなく、その時、その時の思いになります。

      療養する当人は、当人なりの、その人を見守る人(家族など)は、見守る側なりの、踏ん張り・感情があります。
      見守る側というのは、とても自分を歯がゆく、無力に思えてしまいます。”もっと何かしてあげれないか”、”他に何か出来たんじゃないか”というようにです。
      それは、やはり、人それぞれで、正解というのは無いような気がしています。

      ご親族との揉め事。
      わかりますよ、本当に。私とこも経験しました。ドロドロですよ、ドロドロ。結局、あれこれ悩み考えた末、弁護士さんにお願いしました。でも、どうも進まない・・・と思いましたので、違う弁護士さんにお願いしてから、ようやく、表面的に鎮静化?しました。やっと息つけたな〜と思いましたら、10年程かかっていました。常に「なんで?こうなんの? なんで、そう考えるかな? なんで、そんなことが出来るんかなぁ・・・わけわからん。」と思ってましたよ、私。(苦笑)
      義親族とはいえ、人と人。人として侮辱を受ける、侮辱する、は どちらもイカンのです。話し合っても分からないから、ラチがあかないから、第三者(弁護士)を挟まないと、どうしようもないと思いました。
      揉め事がある時に、なかなか、心穏やかに・・・とはいきません。それは当たり前です。躍起になったり、感情を大揺れさせる必要もありませんから、道理(人の道)を通すこと。裁判に負ける勝つではなくて、人としての道を大事にすることだと思います。

      コロナの蔓延で、世の中が変わっていきます。でも、悪い方へは向いていない気がします。”膿み”が表に出て来た、そう思います。
      るるさんが御身と心を大事になさることを陰ながら祈らせていただきます。
      アガサ

      • 初めてアガサさんにコメントさせて頂きます。

        私もコメント、結構勇気がいりました!

        数ヶ月前から、アガサさんのブログを読ませて頂いて
        います。

        二年前に、大好きな母が他界して、
        なかなか現実を受け止めれなく、
        母がいる世界の事を知りたくなりました。

        アガサさんのブログを読ませて頂く度に、
        みなさんの愛の深さや、母の魂は行き続けているんだと思え、
        心が落ち着きました。

        今も、気持ちに波はあり、
        ただ、ただ、無性に母に会いたくなります。

        そんな時は思い切り泣いています。
        思い切り泣いた後は、少し落ち着きます。

        アガサさんに、交流をお願いしたいとずっと思っていました。
        また、ご連絡させて頂きます!

      • sachiko様
        コメントというのは、不特定多数の方々がご覧になるのと、自分の書いたことがインターネット上で表示されるという、この両方で少々の緊張が走りますね。勇気ふるってのコメント、痛み入ります。
        大好きな母上様が、そうでしたか・・・悲しみはとまりませんね。でも、悲しみの種類がそのうち、変化をもたらしてきます。良い変化ですよ。
        親のことは、年々、存在が増すように思います。自分が様々な経験をしていくことで、子どもの頃、ティーンエイジャーの頃には感じなかった思いが親にむけてわいてくるように思えます。それは、辛いことや悲しいことを経験したからこそ、しみじみとわかるのだろうと思います。
        こうしたこと(目には見えないこと)は、伝える人によって、好き放題、無責任に言われ書かれています。良い面ばかり、あるいは、興味をそそられるようなことが表現される分野トップだろうと思います。まあ〜何と申しますか、そういうのも一種の需要と供給なのかなと思うようにしています。(苦笑)
        見る側・聴く側が冷静に物事を普段から考える捉えるクセを身に着けておくことが大切です。 特に感情が大揺れの時機には、こういう自覚が必要です→「今、私は感情が大揺れ。」という自覚。これは結構、防御になります。私の経験上。(笑)
        肉眼で見えないとされていることは、ある意味、専門分野であり、偏った表現が多い分野だと思います。経験と専門知識の有無に関わらず、本当のことは、心でわかります。物事の脚色・嘘・偽善・独断・偏見というのは、心が判断しています。心の判断を無視するのは、誰でもない自分なのだと思っています。(笑)
        悲しい時には悲しむ、泣きたい時には泣く、笑いたい時には笑い、嬉しい時には嬉しいと思える・・・心とは別の、感情もまた大切な働きがあります。怒ることは簡単なんですけど、泣くことは意外に難しい方がおられます。ですから、泣く、泣けるということは大事だと思っています。
        泣いたあとは、お水かお茶を飲まれた方がいいですよ。水分補給は大事ですもん。(笑)
        アガサ

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