サイン(知らせ)というもの

他界した大切な家族から、

愛しい人から、

愛犬、愛猫、愛鳥・・・から、

「 ここにいるよ。」

というようなサインが欲しいと願ってしまう_

そう思われて自然だと思う。

人から、本から、

「 私はこう感じた。」

「 私はこう聞こえた。」

などと見聞きすると

どうしても、うらやましい・・・となる。

” 愛しい人や家族と会いたい。”

こうした気持ちをかきたてるような書籍や

ワークショップ(講習)というのが星の数ほど

有る。

もっともらしいことが書かれ、

その気にさせられるようなことを言われる。

こうしたことをすすめるのは、

宗教的な背景があるか、

または、

ビジネス的な背景が存在する。

” 広めたい ” から。

誰のために?

もちろん、書き手、伝え手の私腹のために。

こうした事というのは、

美しくて素晴しくて良いことだらけ、ではない。

嫌なことや怖いことの方が多い。

そんな思いを相手にさせたいとは思えない。

相手の身になれば 勧められない。

そうしたことを勧めたり、

簡単と言う人の気が、私にはわからない。

サインがなければ、

サインを感じられなければ、

愛しい人との

愛しい家族との

信頼や心の繋がりが信じられないのだろうか?

良い時もあったし、

ケンカした時もあったことが、

サインをくれなければ

帳消しに なるのだろうか?

そんなわけは ない。

信頼や愛というのは、

サインでは計れない。

愛する人と出会った、

愛する子を授かった、

少しの間でも同じ屋根の下で暮らせた奇跡を

サイン(知らせ)などで 計れるものではない。

誰かを 心から大切に思える その心があれば

他に何を望むというのだろう。

何を疑おうとしているのだろう。

愛する家族の心を。

あなたの心を。

自分の不安をサインの有無で判断してはいけない。

愛を何かで計るな。

分かるようなサインがなければ何だっていうのか。

わかりやすいサインの有無、

サインに気付けていない(と判断する自分)、

そんなもので

大事な家族、大事な人を縛らないでほしい。

あなたの心にたっぷり愛があるではないか。

大丈夫。

愛する人は、元気なんだから。

(追記:2/1)
これをアップしたあと、以前ご依頼くださった方から
メールを頂戴しました。
– – – – –
まさにこのテーマで自分が駄目な人のかと感じていました。
(中略)
今日、ずっと通った○○の会がありました。
終わった後、サインの話しになり、
一度も感じない私は自分が鈍感なのかと思い、
勉強が足りないと考えていたところでした。
アガサさんのブログで、自分の勘違いに気付きました。
サインを感じられなくても、○が見守ってくれてることは信じられます。
○○達も含め家族が元気でいられること、
その奇跡に感謝しないといけないとおもいました。
– – – – –
団体の中に自分を置きますと、どうしても、多数の意見が
まるで「正しい」かのように、「普通」であるかのように
聞こえ、捉えられてしまいます。
しかしながら、ひとりひとりじっくりと尋ねますと、
決して、賛成であっても意見や感覚というのは違ってきます。
私がスピリチュアルな団体に属さない、賛成しかねるのは
源となっている「個人の自由意思」というのが抑圧される場
であるからです。

見えないことほど、良識というのは大切です。
アガサ


ティッシュで 突然作られた「ねずみ」ちゃん。
可愛いでしょう?(笑)
しっぽは、お菓子袋などをくくってあるアノ針金。
私の大切な思い出です。

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