命を大切に 〜 普段からの積み重ね 〜
夏休みの時期に
毎年 痛ましい事件や事故が起きます。
なぜ?
どうして?
と起きてしまった原因分析をしてしまうのが
一般的なところ。
私たちは あらためて こう思う必要が
あるのかも しれない_
” 世の中には いろんな人が いる。”
そして、
” 生と死は 隣り合わせ ” 。
聞いたこともあるし、
頭ではわかっていても、
つい 忘れてしまう。
世の中が便利になると、
その便利さと目新しさに夢中になり、
つい、「 油断 」してしまう。
電子的コミュニケーションや
24時間オープンしているお店、など
便利なものばかりが 開発される。
便利さの裏に潜むのは、油断。
我慢しないことを積み重ねる。
カッとなる感情が 膨大し、
待つことを 忘れてしまう。
忍耐の裏に輝くものが 面倒に思われる。
” 世の中には いろんな人が いる。”
私の場合、ぼんやりとながらも、
そうなんだなぁと思えたのは子どもの頃。
実家は商売を営んでいたので、サラリーマン家庭よりは
人の出入りが多かった。
来られるお客さんは・・・実に様々。
その人の放つ空気感(オーラ)の変化を
バックヤードから ぼんやりと眺めていた。
近所の人はもちろんのこと、
観光客も来られるし、
ふら〜 っとしたような人も来られる。
なかには、
最初からおかしな空気感を放っている人も
おられた。
そんな時は 反射的に 子どもライオンか、
警戒する動物にでもなったような気分に
なっていた。
お店を営む祖父母をみて、子どもながら、
” 人が集まってくる場所は 大変だな・・・”
そう思っていた。
” なぜ、多くの人々が集まってくるのだろう・・・”
そんなような、どうでもいいようなことを
子どもの頃の私は 不思議に思えた。
出来る限り、人混みには近寄りたくない子だった。
今は、驚くことに
小学生の低学年の子どもが ひとりでコンビニに
出入りするようになってしまった。
これは「 そういう時代だ 」と言いきれるのだろうか?
とても 自然な流れとは思えない。
思いにくい。
小さな子どもがウロウロしてるだけで
ヒヤヒヤしてしまう。
いつもいつもではないけれど、
どんな危険が潜むのかをイメージし、
家族団欒の時にでも話し合うことも
大切なことではないかと 思う。
危険を予想し考えることは 面倒くさい。
でも、事が起こってから
「 想定外 」とは 無責任にも 言えない。
この世には いろいろな人がいるからこそ、
最大の敵は、自分自身の心に芽生えてしまう
「 油断 」なのかもしれない。
自分でさえ、すべてのことから守りきることは
不可能だろう。
まして、家族を守りきることは 無理だろうと思う。
カルマや何とかのせいでは ない。
運が良い、悪いでは ない。
原因追及したところで 命は 蘇らない。
とにかく。
昼間であっても、人の出入りが多い場所や、
夜遅くまで照明が付いていても、
「 油断大敵 」。
” 生きることは、死と隣り合わせ。”
脅える必要は ないが、
油断する必要も ない。
他から命を奪われた方のことを思うと
胸が張り裂けそうだ。
またか!
考えらない!
どうなっているんだ!
と思っても キリがない。
防げるのは 日々の、家庭で
命について考える、話す機会。
親が 普段からそうした姿勢を見せていくしか
ないだろうと思う。
それでも、完璧は ない。
この夏に 命を奪われたすべての方々の
ご冥福を 心から祈ります。
アガサ