自然に沿う

暴雨続きからいきなり、激暑です。
お元気ですか? そこそこ。
先日、Mさんから、「友人がお世話になりました」というメールを頂戴しました。
そのお返事に加筆させて頂いたものを記させて頂きます。

– – – – –

年齢を重ねるだけでは心が伴いませんよね。
辛い経験、悲しい経験、もがいてもどうしようもない時期が、自分の心や根性を見つめる機会だと、私自身の経験により思えます。

誰かが幸せにしてくれる、幸せになるために生まれてきた_
こういう考えは私にはありません。
冷めた子ども時代を過ごしたのではなく、日常を観察していて自然にそう思えるようになったようです。

小学校時分、友達たちが話して作り上げていた「絵に描いたような幸せ」を聞かされました。
人というのは不思議なものです。
友達たちが次第に、妄想世界へと突入していくのが不思議に思えました。
うっとりする友達たちから感想を聞かれた時に言った言葉、「嘘(虚像)は嫌い」。
この一言で、友達たちはそれぞれの親に言い、親御さんはうちの母に言い、うちの母は私を叱りました。(苦笑)
小学生の私は母に「怒られても、私、嘘が嫌いやから。」とだけ言い、親にも友達たちにも媚びへつらうことなく、いつも通りでいました。

無視されても別に構わない。
自己中な嘘を言う人に、謝るのは違う。

母から、とりあえず謝りなさいと言われても、納得できないから謝る必要はないと思い、謝りませんでした。(大笑)
周囲がどうであれ、自己都合による嘘(虚像や妄想)は嫌い。(笑)
好かれたいとも思わない。
友達の人数なんて、関係ない。
小学生の私にとって大事だったのは、「自己中心的な嘘を人に言うような人間には成りたくない」でした。今もそう。

自然に沿えば、一般的に言われている幸せになれるかといえば、そうではないでしょう。
自然に沿うということは、大きな悲しみもささやかな幸せ(平凡や普通なこと)を分け隔てなく、授かることです。

普段からこのことを心から納得することは、生きるうえで大事だと思うのです。
まさに、自分次第。
どんな時も、自分が自分を認めて、叱咤激励してやる。
これ以外、無いのです。
人生は、自分にとっての不都合と好都合が混ざり合っていて自然です。
これは事実。

子どもの頃から他界の人達を見るたび、脅えてき、何故なのか、誰なのか、そんなことを思えるほどクールではありませんでした。
ただ、思っていたのは、
人は生まれる時も死ぬ時も周囲の支えはあるにせよ、自分の大事であり、独りなんだということ。
独りはマイナスイメージではありません。(誤解されませんように)
神聖で神秘で尊重すべき大事なのです。

独りといいましても、必ず誰かの尽力を頂いているのです。
一生会うこともない誰かの尽力を、です。

上をみれば、きりがなく
下をみても、きりがない
隣の芝は、青く見える
無い物ねだり・・・
人間というのは、基本的に自分勝手な生き物なのです。
それを頭にたたきこんで、
上も見ず、下も見ず、隣の芝も見ず、
自分の心を見てやったほうが良さそうです。

私は、野良で生きる動物たちに非常に惹かれます。
必死に生きる姿は誰かに褒めてもらうものではないのだと、彼らの姿や声を見聞きする度に我に返り、思い出すのです。

周囲の人々の存在(行動など)は、自分の心を映す鏡のよう。

不都合な物事を叩き付けられた時は、気づく時。
比較的好都合(無難)な時は、誰かの尽力だと有難く思う時。
自分が優位、優秀、特別と思えている時は地獄の最中と思えば善いのです。
その実、醜い形相をしているもんです。(苦笑)

文章が長くなりましたが、とにかく、良かった。
本当に良かったですね。
ご友人Kさん、ようやく、ご自分と対峙されましたなぁーーーと思います。
これからはしみじみと歩かれることと思います。



※文章整理 7/22

近所の公共施設に植わっているラベンダー群。通る時、さぁっとなでていくとあたりにラベンダーの優しい香りの空気玉が出来ます。優しさ+キリッとした気分になります。

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