過去の上に成り立っている今。
ご依頼を頂いた方々から、その後も時折、メールを頂きます。
最近は、返信時間がとてもゆっくりになってきました。(苦笑)
すみません。
8月に入り、いろいろなことを振り返り、考えます。
今までのことや、これからのことの両方に思いを馳せたり。
原爆、終戦があった月であり、
命について、平和について、
あらためて考えることが多い月でもあります。
そうこうしていましたら、
ある方から久しぶりのメールを頂きました。
書いてくださった方の心の流れをご紹介したいと思います。
– – – – –
2015年の○月にそちらに伺わせていただいた○○と申します。
何度かメールのやり取りをさせていただきました。
憶えていただいてると嬉しいのですが。
あの節は大変お世話になり、主人との仲を取り継いでいただき感謝しております。
あれから一年以上が過ぎ、わたしもいろんな事がありました。
お陰様で落ち着きを取り戻し、幸せな時間を過ごす事が出来ております。
主人が亡くなったことで、沢山の気づきを与えてもらい、
亡くなる以前より多くの事がわかるようになりました。
あの時にわたしも死んだのだなと、近頃強く思います。
自分の設定を新たに作り上げる日々が続いていました。
古い価値観をすて、固定概念を外し、新たな価値観で新たな自分。
(中略)
あれから本当にいろんな心の動きがありました。
「生きねば」
ただそれだけの思いで、ここまできたような気がしています。
(中略)
主人のことはとてもとても哀しい。
今もとてもとても愛しい。
でもわたしの幸せと環境は無関係ですから、
それはそれとして「生きねばならない」のなら、
「幸せで楽しい」という感情をメインにすることを選択しました。
(ご主人の他界は)
わたしに「愛である」ことを気づかせてくれました。
それに関しては、ほんとに感謝しかありません。
主人が身をもって教えてくれたんだと思ってるので、
わたしは生きねばなりません。
しかも、よりいっそう輝いて生きねばなりません。
どんなことがあっても、笑っていられるよと怖くないよと安心してと、
皆に感じてもらえるように。
彼の命を無駄には出来ません。
彼はわたしの中で生きている。
よく聞く言葉ですが、これは比喩のようなものではなく、
ほんとにそういう意味なんだと、ほんとに生きてるんだなと感じています。
(略)
– – – – –
愛しい人の他界は、それまでの考え方や生活を一変させます。
価値観も。
全てが無駄に感じ、空しく思えことが多い。
今までに湧いてこなかった感情や憶測というのも
あるかもしれません。
そうであっても、自分と向き合い続け、
「 生きねば 」と思うことは、実に大変なことです。
” 言うは易く、行うは難し ” です。
言うことは、自分のことであっても” 他人事 ” 的で、
好き放題、言いたい放題、言えます。
行うことは、自分から奮起せねばならないのです。
最愛の人の他界を無駄にしないためにも、
より一層輝く、笑って生きるんだという方向を辿るに至っても
日によって、時間によって、山あり谷ありのこともあるでしょう。
それでも、笑って生きていく・・・ように感情を切替えるのは
心のしなやかさだろうと思います。
私が回想を書き続けることが少なくなってきています。
素晴しい交流の仲介をさせて頂いているにも関わらず、です。
回想を書き続けることが、
読み手であられる方々にとって、
最愛の人の他界を経験された方々にとって、
心のしなやかさに繫がるのだろうか?
ということ。
善い面もあるでしょうし、
違う面もあるでしょう。
人や動物の死後に起こることを
” 不思議系 “や ” 現象扱い ” したくありません。
ご依頼人をはじめ、読んでくださる方々を
そうした方向へ注目させ、いつしかそれが “執着” のようなものに
なってしまうことは、本末転倒であり、不本意です。
そして、他界された方々に対して失礼な話。
証拠、証拠、証拠と いつしか 目を吊り上げるような狭い心を
発露させたくも ありません。
ご依頼くださる方々のなかには、そういう方もたまにおられます。
そういう時に限って、通常の何倍も気力と体力を消耗します。
お帰りになったり、お電話やスカイプを切ったあと、
空しさが胸に広がります。
( 精一杯ご自分のことを伝えて来られたのに、
なぜ、認めてあげようと出来ないのか・・・
なぜ、” あぁ、そうだ。”と心で感じてやれないのか・・・)
( 誰にとっての「 証拠 」なのか?
なんのための「 交流 」なのか?・・・)
という思いがぐるぐると駆け巡ります。
愛する、
大切に思う、
感謝する、
こうしたことのなかに、純粋性がなければ
一歩間違えれば、欲が絡んでいることも大いに在ります。
誰のために、愛している のか、
誰のために、大切 なのか、
誰のために、感謝する のか。
自分のために(相手を)愛していたり
自分のために、大切だと思っていたり。
感謝という衣を身にまとっているだけで、
それを感謝だと思い込んでいたり。
本当に、相手を大事に思えるならば
「 生きねば 」なりません。
心歪めて生きるのは、
本当に生きているとは言いづらい。
” 私は誰からも愛されていない “、
” 私には家族はもういない “、
というような、すべてに対して否定的に生きることを
愛しい人や愛しい家族が思っているわけが ありません。
うまくいかないことがあっても、
なにくそと踏ん張りながら、
腹で泣きつつも、
顔では笑って・・・
いつしか それが 本当の心のしなやかさとなり、
うまくいかないことがあっても、
悲しいと思うことがあっても、
「 まぁ、安心してて。」
と、
腹でも顔でも 笑顔が出てくるようになってきます。
家族の他界は、過去ではありません。
大切な人との時間が、消滅したわけではありません。
過去の上に、今が成り立っているのです。
原爆や終戦記念日と設定されている、8月。
この日だけ、
この月だけ、
命について考えたり、黙祷したり、でOKなはずがない。
普段、日常から、私たちは、
自分の考えと行動を一致させていくよう努力し続けることで
他を思いやり、命を祖末に扱わないことで、
「 生きている 」ということになるのだと思います。
” 悲しい。”
この感情の上に、新たな心ある行動を少しずつやっていくこと。
それは、この世を生きている私たちの使命であり、責任。
どう生きていくかを 愛しい家族のせいにしないで頂きたい。
悲しみのせいに しないで頂きたい。
自分の人生におけることを、誰かのせいにしないで頂きたい。
肉体を有することだけに「 生きる 」を結びつけてはなりません。
そうした現象などに頼ることは、私は勧めません。
なぜなら、
肉体(物質)に偏っていて、存在というものからかけ離れているからです。
” 心の中で生きている。”
いつか、ある日、この真意を感じ取られることを
心から祈ります。
アガサ 葉山在住
天国との対話 愛しい家族との時間
~天国の人々の思いを伝えています~