夢に出にくい?

頂いたメールです。

全く同じ、ということは無いと思いますが、

似たようなお気持ちをお持ちに方に、勇気を奮って頂きたく

やりとりを掲載致します。

<頂いたメール> – – – – –

おはようございます。
いつも、ブログ拝見させていただいています。
(中略)

今日は突然のメール申し訳ありません。
こんなこと、アガサさんにお聞きしてもご迷惑かなって思ったのですが
他に話す人さえいないものですから。
もし、答えるに値することさえないようでしたら
お返事は全く気にされないでください。

実は、○月にアガサさんにスカイプでお願いしてから
2度ほど○が夢にでてきてくれたようなのです。
でも、夢の中で私は○を認識 しているはずなのになぜか○ではないのです。
顔が、○だとわからないのです。

ただの流れの中の夢であるだけで○がでてきてくれてないだけの
普通の夢ならそれはそれで仕方ないって思いますが、
私のせいで○がでてこられないんじゃないかって思ったり
私は親としても人としても欠陥があるんじゃないかって落ち込んでいます。

私はまだ言えない言葉があります。
○くなって、
向こうへいって、
○んだ、など
他にもありますが言葉にするのはもちろん文字にすることもできないでいます。
頭ではわかっています。
でももしかしたら、心のどこかでそうじゃない、
見えないけどいるんだからって
その現実を受け止めていないんじゃないかって考えることがあります。
自分で文字にしたり言ったりするとその現実が目の前に現れて
心が壊れてしまいそうなのです。
その言葉で○の今を表したくないだけかもしれません。

情けないって思います。
やはり夢にしっかりでてきてもらえないのは私の心のせいなのでしょうか?
どんなに哀しくても苦しくても前向きにひたすら頑張ってらっしゃる方々に比べたら、
いえ、比べるのもおこがましいほどどうしようもない親なんだって思います。
他にも私のような人っておられましたか?
○はそれで苦しんでないでしょうか?

ごめんなさい。
どうしてもお聞きしてみたくて失礼を承知で メールさせていただきました。

<ご返信> – – – – –

(略)

夢はご存知のとおり、
自分の心(感情)や様々な意識、記憶などがごちゃ混ぜになります。

夢を見る側の心の有り様のせいで家族が出て来れない、
出にくいというのはないと考えています。
薄情に聞こえるかもしれませんが、家族といえども、
ひとりひとりの人生があり、存在(魂)です。

自分の何かのせいで、家族やご先祖に迷惑をかける_
というようなことは日本古くから残る迷信のひとつです。
家族であっても、存在は別。

例えば、
ある人が犯罪をおかしたからといって、ご先祖さんの生活が暗転する、
ということはありません。
良識で考えても、おかしなことです。

夢に出てこれないのは、
誰々のせいです、とか
その状態はご家族が苦しい(暗いとこなど)状態にいらっしゃいます、とか
口達者なことを言う霊能者や霊媒、占い師、ヒーラー、
そういう活動をされてなくても、自分から「霊感がある」等とおっしゃる方々は
わんさかといるだろうと思います。
大抵は、不安や恐怖を与える言動と自分を特別扱いしたい感情から発するものです。

さらに、
「 浄霊の必要がある 」とおっしゃるでしょうし、
「 これが必要 」と物品などをすすめられるでしょう。
悪徳霊感商法というのは、人の感情につけ込んだものです。

全ては良識で考えればわかることです。
冷静で在ること。
何かで判断しようとしないこと。

夢で家族と会える、ということは意外にも少ないと思えます。
私は見ない方です。
( 気持ちとは裏腹にほとんど見ませんでした。)

見ないことが、縁が薄いと思いませんし、
見ることが、縁や絆が強い、とも思えません。
この判別は、私たちがすべきことではないと思っています。
個性のひとつ、と考えた方が善いと思います。

私には、ずっと会いたいと願っていた家族がいます。
夢に出て来ない期間は、7、8年程だったと思います。
初めて夢にあらわれたとぼんやりと思えたのは、強烈でも印象的でも
普通とは違う夢・・・とも思いませんでした。
さらっとしていて、そう言えば見たような気がする・・・という感じでした。
出ずっぱりではなく、一瞬の現れでした。
以降、家族は夢には出てきません。
それで良いのだと思っています。
家族と自分を信じています。
というよりも、それが自然なんだと思っています。

言葉に出来ない、写真を見れない、という方々は多くおられます。
いづれにしましても、無理はしないということです。

現実というのは、何が現実かは人によって違います。
正しいということも、そうですね。
人によって「正しさ」は違います。
時代によっても「正しい」ことは違ってきます。

夢で現れること、あらわれないこと、
他のことも含めて、
家族を人が、家族を苦しめているはずはありません。

人の感情というのは、まったく厄介なのです。
私もそれは日々、痛感しています。
自分はなんて臆病者だろう、怠け者だろう、なんとかだろうって。
けれども、そう思い続けていても、なんのためにもなりませんし、
誰の役にも立ちません。
ばかばかしい感情です。
( こんな考え、や〜めたっと!)と心で思います。
そんな感情に飽き飽きです。

大きなことなど出来なくても、毎日、掃除したりご飯を作ったり、
些細なことの連続、マンネリな日々のなかで、互いに助け合い、
支え合って生きていくことが、すべてに繫がるんじゃないかと思っています。

○さんが苦しんでおられるわけがありません。

夢で見ることは、自分の感情(怖れや欲望など)が反映したものがあります。

大丈夫ですよ。

<上記へのご返信メール> – – – – –

(略)

言葉にできないこと、現実と向き合っていないのではということは
私にとって心の重圧になっていました。
夢のこと、理路整然とお話しくださったことは私にとって
目の前に霧があることを教えられ初めてわかったようなそんなハッとすることでした。

やみくもになぐさめられそんなことないよって
例え本心から言われても きっと私はまた暗闇から抜けられなかったでしょう。

そっかそうだよねって素直に考えることができました。
思うだけではなく考えることができました。
 
>現実は、何が現実か人によって違う、正しさもそう。

>無理はしない

この言葉は私にすんなり入ってきました。
優しさと一緒に入ってきました。

現実と向き合わなくては前に進まない
絶対そう言われるって思っていたんでしょうね、
実際周りからもそう言われることがあるので。

定石の言葉って正義を振りかざしているようで
素直になれないあまのじゃくな私ですが
それすらもあっけなく吹き飛ばしてくれました。

アガサさんも大事な人の夢をあまり見ないって意外でした。

ということは私の心が腐っているからだけではないのかも
と、ちょっと安心しました。

私が○のところへ行くその日まで、
もしかしたら言葉にできないことが続くかもしれませんが
それでも無理はしない、言えるようになるのかどうかわかりませんが
他の親御さんと比べないで
私は私のままでこのままでいることもありだよって言えそうです。

ちょっと安心しました。

– – – – –

私たちは一生をかけて、

自分の心のなかに沸々と湧いて来る感情_

不安、嫉妬 というものを

潰していくのではなく、

闘うのではなく、

日常生活を通して 心の偏りを均等にしていけるよう

心掛けていくのだと思います。

” 心しなやかに “

感情のどんな台風が来ようと、

竜巻が来ようとも、

冷静さ(理性)を腹にぐっと携えて

日常を生きていくこと。

これは 簡単なことではありません。

けど、

それしか出来ないし、それが人として大事だと思います。


ゆで用の落花生だそうです。
落花生の育ち方は、本当に「落花生」だそうです。
私はこの目で成長を見ていませんが、家族は感心していました。
収穫された姿を見ますと、(めっちゃ、地味や)と思いました。
枝豆よりもさらに地味なんです。
種からそれぞれの姿になっていくことは、それだけでスゴい。
ちゃんとこうして、落花生の姿形になるのですもんねぇ。
わが家では、食べる野菜の実の中にある種を残し、
手間と日間をかけて乾燥させたりしています。
その種から、、、こぉ〜んなちっちゃな種から、野菜に育つんだと
びっくりします。
売られているほとんどの種は、種を植えても育ちません。
そういうように人工的に作られている種、だからです。
丈夫に育つように(手間がかからないように)、美味しくなるよう
人工操作されています。
その代わり、毎年毎年、種を買わねばなりません。
家族は、そうではない自然な種(固定種)で野菜作りをしています。
見た目や味は、人工的な種には劣りますがとても素朴な雰囲気です。
こんなことは、いままで全く知りませんでした。

「当たり前のことだ」で済ませると、味気ない無感動な人格が育ち、
横道それますと犯罪に至る可能性と成ります。

世の中のことは、当たり前のことばかり。
けど、
良いこと、助かること、生きることに、
何一つ「あたりまえ」のことって無いと思います。

茹でた落花生。
美味しかったですよ!ほんと。
私はお酒類は飲みませんが、
ビールが好きな人は、好きだと思います。

+3

2件のコメント

  • 意外な言葉のオンパレードでした。
    私たちは一生をかけて、
    自分の心のなかに沸々と湧いて来る感情_
    不安、嫉妬 というものを
    潰していくのではなく、
    闘うのではなく、
    日常生活を通して 心の偏りを均等にしていけるよう
    心掛けていくのだと思います
    " 心しなやかに "
     
    闘わなくていいなんて、潰さなくてはいけないもの思っては絶対だめなもののオンパレードの私です。
    いつもいつも自己嫌悪の私です。
    それでも私にだってほんの少しは人に与える優しさも思いやりもあるはずです。
    それは大事にして心の偏りを均等にしていけるよう心掛けることはできそうです。
    気づかせていただけたことに改めて感謝いたします。
    なくすことはできなくても、心の偏りを均等に、心しなやかに
    またちょっとホッとしました。
    ありがとうございました。

  • おはようございます。
    コメントをありがとうございます。
    だめ、と思うと努力はすれどその駄目なことに意識が残るように思います。
    私は多分そうだと思うのです。
    人間は皆、完全で完璧な人っていないと思います。
    どれだけ偉業をなした偉人であっても、完全だとは思いません。
    ならば、凡人の自分なら、駄目なところがあっても仕方ない_
    そう思ってきました。(笑)
    そういうところも含めて、今の自分なんだろうって思います。
    良いところか、
    悪いところか。
    この両極に人の気持ち(欲?感情?)は、ぴゅうーっと行きますね。
    最近、ニュースに芸能人の方々のゴシップが多いのはそういうこと
    かなと思います。
    それだけ、表に出ている人に対しての「こうであってほしい」、
    「こうあるべきだ」というのが大きいのだと思います。
    公人ですからね。当たり前だろうって。(苦笑)
    公人であっても、
    秀才であっても、
    なんであっても、
    私は、そうは変わらないと思っています。
    人間という生き物。動物。
    そこで違いが出てくるのは、
    自分が苦労したことや嫌な思いをしたことを人様にはやらない_
    辛苦をなめたのだから、心の均衡をとっていくことに
    心が向いていくと思います。
    本当に辛い思いや悲しい思いをしたら、
    生き方や価値観が変化してくると思います。
    今迄はこういう考え方だったけど、もう今の自分には当てはまらないな・・・
    今まではああいうのに興味があったけど、今は興味は薄れた感じ・・・
    とか。
    ある意味、
    楽しみが減るような感覚を覚えるかもしれません。
    楽しいことって、何だろうと思えたり。(苦笑)
    その楽しいこととは、一体なんだったのか、ですよね。
    お金で買えるもの、手に入るもの = 楽しみ
    だったんじゃないかって。
    それはそれで良いと思います。
    けど、そういう関心が薄れてしまった分、
    多分に、「自然に生きる」こと、「普通に生きること」のスゴさが
    身にしみてわかってくるような気がします。
    とても、地味なことです。
    その地味さが板についてきますから、パッとしませんよ、外見とかも。(笑)
    でも、生きるってそういうことじゃないかと思うのです。
    私たちが憧れを覚えるような「 ラベル 」。
    ラベルとは学歴、職業、勤め先、出身などなど。
    世の中には、目もくらむような優雅で、素晴しい才能の持ち主、
    さらっとやってのける方々がたくさんおられます。
    だけど、
    悲しみや辛さは、誰にでも訪れます。
    そうした時、ラベルなんて関係ないんです。
    どういう状態であっても、心のバランスに理性を働かせるかどうか_
    これは、人間だれしも、みんな、同じと思います。
    そこに何の差もないと思います。
    丁寧に生きることほど、難しいことはありません。
    そう思います。
    アガサ

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